「反知性主義」についての試論
- 悠樹 阿部

- 2020年8月8日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年8月9日
私は主知主義的な人間です。
知らなければ行為することができず、知れば行為せざるをえない人間です。
惜しむらくは、今の日本において、intellectualismがさかしらごとと同一視されていることです。intellectualismを知性主義と訳したあの俗物の存在ほどに、この頽落を雄弁に物語るものはありません。
学問とは<正しい思いなし ὀρθή δόξα>を<知識 ἐπιστήμη>に高めるための探究です。
(プラトン 『メノン』)
生活者としての素朴な予感や違和感を出発点として、学問をすることは悪いことではありません。本を読み、学友と対話することで、そのような予感や違和感を正確な知識に高めてゆくこと。その過程で知らなかったことを知り、当初の考えを確信したり、改めたりしてゆくこと。これが学びです。
ですが、今の世で真に学ぶことができている知識人はわずかです。今の政治・言論空間では、自説に異議を唱える人にたいして、学歴や肩書をふりかざして黙らせるというやりかたが瀰漫しています。その際に用いられるのが、「反知性主義」というレッテルによる蔑みです。
むしろ、知識人こそが、現代の知的貧困に責任を負っています。彼らは大学でポストをうるために、メディアでもてはやされるために、人間が善く生きることに関わりのないところで、無味乾燥な記号をもてあそんでいます。彼らは「知識人」ではあっても、学者ではないのです。
このような「知識人」は先進国の大学や主流メディアという安全圏に籠居し、その組織の内部での立身出世に寄与する記号の体系の内部においてのみ、知的発見(≠探究)をおこないます。そして、かような自己の知的怠慢を糊塗するために、他者の素朴な疑問や違和感には、「反知性主義」というレッテルを貼って耳をふさいでいます。
私たちが政治に参加するにあたっては、このような教養ある俗物たちとは一線を画したやりかたで、同胞と交流してゆきましょう。
政治学とは、<共同体にかかわる知識 πολιτική ἐπιστήμη>です。
私たちが政治の場でなすべきことは、予感や違和感を同胞とともに呼吸して、善美の相に照らしてそれを知識に高めてゆくことです。そのようにして得られた知識はかならず、政策上の実践に活かされます。なぜなら、学者にとって知識と実践は不可分だからです。
このような対話を行うことによってのみ、国民にあやまちがあればそれを改めることを期待しうるし、また私たちの今の時点での思いなしも正されてゆきます。「反知性主義」というレッテル貼りにはなんら教育的配慮が存せず、教養ある俗物の自意識をその場において満足させつつ肥大化する、依存性の麻薬でしかありえません。
令和2年8月8日 阿部悠樹
添付写真
左:プラトン『パイドン』 読解ノート
右:スピノザ『エチカ』 読解ノート





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