福田恆存『戦後日本知識人の典型淸水幾太郎を論ず』①
- 悠樹 阿部

- 2025年3月26日
- 読了時間: 7分
著者は劇作家でもあり、清水幾太郎という人物の洞察も、演劇の台詞--後で調べたところゴーリキー『男爵』のようだ--を引用するなどして読ませるのだが、私が清水氏や当時の言論界・学界についてよく知らないこと、また著者の<人間>に対する洞察が深いのに対して私はまだ浅いことから、コメントをつけるのは難しかった。
したがって、書かれていることを素直に受け取るだけにとどめて、このメモでは引用しなかった。
追記 やはり、人間の洞察についても私に感想が浮かぶ種類のものはあったので、前言を翻して、書き留めておきます。
「確か五月の末近くであつた、「週刊文春」編輯部より電話があり、清水幾太郎氏が日本の國防について大膽な提案を行つた、氏自身の論文は百枚位のものだが、第二部として専門の自衞官數名が裝備その他を含む防衞戦略の大綱を詳述した百六十枚程度の具體案を添加してゐる、それを讀んで意見を述べてくれないかといふ電話が掛って来た。私は言下に斷つた、第二部については素人の私がとやかく言ふべき筋合ひのものではない、のみならず、その素人の私が今日まで一個人、一國民として國防に關心を示して来たのは、戦略、装備、軍費の具體案ではなく、さういつた具體的な問題を論議する前に、それを研究し、その結果を檢討し得る體制を造る事、即ち國家、社會における軍の在り方を正常なものにし、文民統制といふ問題を含めて、軍が軍で在り得る爲の機構、機能を整備する事、その方が大事だと考へてゐたからであり、防衞問題ばかりでなく、何事につけ、さう いふ常識が通用しなくなつた「戦後の風潮」を私は私の「敵」と見てるたからである。さう言つて斷ると、電話の相手は清水氏もそれと同じ事を言つてゐる、せめて第一部だけでも讀んでくれと言ふ。が、私は思つた、私の言ふ「戦後の風潮」の際立つた代表者の一人である清水氏に私と同じ事が言へる筈が無い、仮に言へたとしても、同じ事なら讀む必要は無いし、同じ事が言へる樣な風向きになつたからそれに唱和するといふのが私の嫌ふ「戦後の風潮」であつて、それなら讀まずして批判的にならざるを得ない。大體さういふ意味の事を言って電話を切った。」
著者は、具体論をやる前に、具体論をやれるようにするために言論状況を正すことが重要だと考えていたようだ。もっとも、その努力も、『言論の空しさ』で書かれているように、この社会では言葉に力がなく空しいといった感慨を彼に抱かせたのかもしれない。
また、清水幾太郎に協力した自衛官がどういう了見でそれをしたのかも気になった。
「ナースチャは、一生に一度のロマンスなのに、話す度にその戀人の名前が變り、服装が變り、職業が變る。茶を入れずに 「さ、娘さん、お話し!」と言ってやれば、相手はただ話して話して話しまくるしかない、が、話せば話すほど、基に事實が無いのだから、少くとも無きに等しいのだから、どうしても昨日の話と今日の話とに違ひが出て來る、前後に矛盾が出て來る。尤も清水氏の場合はナースチャと異り、事實、或は行動はある、そしてそれは萬人の前に曝け出されてゐる、が、その事實、或は行動の動機となると、誰の目にもはつきり見えるといふ譯のものではない、恐らく清水氏自身の目にもはつきり見えてゐないのであらう、隨つて、或る時期における一つの行動の動機が、五年後、十年後、二十年後でそれぞれ氏自身にも違って見えて来るに違ひない。誰の場合でも動機などといふものはさういふ怪しげな摑へ所の無いものではあるが、清水氏の場合、特にさう言へる。なぜなら、氏には生来、附合ひのいい、人なつこさ、東京下町人特有の面倒見の良い家父長的性格があると同時に、始終、大政、小政から石松まで、自分に近附く者を取巻きにしてゐないと氣が濟まない寂しがり屋の弱さがあり、孤獨を好まず、孤獨に堪へる精神に缺けてゐる爲、事を起すのに明確な動機や目的意識が稀薄で、取巻きや時の風潮に氣軽く附合つてしまふからである。」
過去に私がいかなる動機で何をしたか、当時の事実に基づいて(いわゆる捏造をせずに)理解して話すことは誰にも難しいことであろうが、思想がない人間の場合には、とりわけ難しくなる。
「淸水氏自身、意識してゐるかどうか解らぬが、氏の目的は國防そのものではない、また、 その意識の昂揚、具體的な方法の提示、或は國防を論ずる為の狀況造り、その爲のタブー破りでも ない、では、何なのか、言ふまでもない、「核の選擇」における防衛の對象は日本なのではなく清水氏自身なのであり、その全文は手のこんだ自己防衛の仕組みに他ならない。隨つて、それは、餘人ならぬ淸水機太郎が國防強化を言ひ出す經緯説明以外の何ものでもなく、非難は覺悟の上とは言つても、同時に、「あの淸水幾太郎が」といふ效果の方がその種の非難を遙かに上廻るほど大きい、 苦勞人の氏の事だ、その程度の計算は殆ど本能的に働く筈である。さう考へるのは氏に對する私の買被りであらうか。
正に「蕩兒、歸る」(ルカ傳第十五章十一以下)である。放蕩息子が父親から貰った財産を使ひ果し、 悔い改め、落ちぶれて歸つて来たのを、父親は歡び迎へる、孝行で勤勉だつた兄は當然面白くない、 が、父親は兄の不滿を抑へて言つた、「子よ、汝は常に我と共に在り、わが物はみな汝の物なり、されどこの汝の弟は死にまた生き、失せてまた得られたれば、我らの樂しみ喜ぶは當然なり」と。イエスでさへ、これを認めた、『諸君』編輯子がこれを喜び迎へるのは當然である。が、イエスと編輯子と、その喜びは果たして同じ性質のものであらうか、また日本の蕩兒は眞に悔い改めたのであらうか、事々しく問ふまでもあるまい。」
最初から正しかった人はいるのに、アカ—共産主義者や容共擬似リベラリスト—の大学教授だとかが転向すると(しかもきちんと改悛してはいないのに)諸手を挙げて歓迎ムードになるのはおかしいのではないか、というのは、私も西部邁氏について感じたことである。彼が元来の保守派知識人(本当に立派な人たちだった)を、誰それは本物の保守ではないなどと誹謗していただけに、なお一層そう思ったものであった。
保守派には公教育やマスコミに対する「影響力」が乏しいので、それを持っている人がこちらに来るなら歓迎するという事情があったかもしれない。もっともその「影響力」が何か真に価値があることを達成したのか、私には分からない。かえって私たち日本人の言論やモラルを混乱させたのではないか。
もっとも、前回に私が書いた通り、保守派には言論業界と教育業界において組織的基盤が無いに等しかった。
「なるほど、事實、或は行動は萬人の前に曝け出されてはるるにしても、それを忘れるのも世間の通弊であり、今の若い人とは二十年前、三十年前には殆ど物心づいてをらず、當時の清水氏の行動は彼等の前に事實として曝け出されてるるとは言へない。さういふ事實については、氏は嘘を吐くまでもなく、隠す事が出来る。譬へば、もし私の記憶に誤りが無いとすれば、憲法についても國防についても、今の氏と同じ様な考へを持つてゐた高山岩男氏を、學習院教授に迎へる様、常時の院長の安倍能成氏が決定した後で、一教授に過ぎない氏がなぜこれを妨害したか、その「說明」が「戦後を疑う」にも「わが人生の斷片」(文藝春秋刊)にも出てゐない、但し、久野收氏を學習院大學教授に採用して貰ふ爲、安倍院長に請はれるまま、仕方無く、自ら人質、 「景品」として同大學の教授になつた義舉については詳しく書かれてゐる。(「わが人生の断片」下巻 九十四頁以下)高山氏の就職妨害については、清水氏にも色と言ひ分があらうが、私自身、それと 似た様な氏の遣り口を終戦直後の二十世紀研究所、その他で二度も目の邊り見てゐるので、高山氏の話を單なる巷間の流言として聞き流せなかつた事を覚えてゐる。」
言論界における左派のヘゲモニーは、日本の敗戦によって外からもたらされたものである。だが、彼らが今に至るまでそれを維持しているのは、取巻きを従えたり、大学の人事に容喙しまた自ら人事権者になるといった、集団の力、"政治"によってであった。
加えて、保守派言論人にいわば思想はあっても、時代に必要とされる弁論術は左派に劣後していた。左派には、たとえ嘘であっても、大上段に構えた議論ができる人材がいた。
負けておきながら一身がモラルを保持したといって、何を達成できるであろうか。それは誇れることなのだろうか。




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