「善く生きる」か「良く生きる」か?
- 悠樹 阿部

- 2020年4月1日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年5月11日
大江さんは「よく生きる」ことには健康に生きることが含まれるとして、「良く生きる」と表現している。それに対し、肉体の健康は魂が「善く生きる」ための手段に過ぎないと私は主張した。(註1)
両者の立場の相違の由って来るところは、心身二元論をとるか否かである。
私はデカルトに大きな影響を受けている近代人である。(註2)しかも、私の原体験はほとんどが読書体験であり、生活上はいわゆる「引きこもり」である。その私にとって、「よく生きる」は精神の問題である。したがって、寝食を忘れて哲学に没頭するのである。
一方で、大江さんは「健全な肉体の中に健全な精神が」mens sana in corpore sano宿っているような古代ローマ人の美徳を重んじている。大江さんは弁護士として社会人経験が豊富である。したがって、「よく生きる」ためには健康に生きることが必要であると考えるのだろう。
心身二元論だけが絶対の人間観ではない。 むしろ、古代ギリシャ人にとって「善美のことがら」は肉体の健全さも含んでいたように思われる。プラトン(「肩幅が広い人」を意味するあだ名)は日々体育場で肉体を鍛え、レスリングのオリンピック選手でもあったという。 心身二元論者に満ちている現代において、「善く生きる」ことを精神だけの問題とし、健康はその手段に過ぎないと考える私のような人間はおそらく多い。 したがって、大江さんはあえて「良く生きる」という表現を使うことによって、「よく生きる」ことの意味が現代人と古代人で異なっていることに注意を促したのである。
私には私の原体験があり、大江さんには大江さんの原体験がある。 私は「善く生きる」という私の生き方を譲れないが、大江さんの「良く生きる」という生き方も尊重するのである。
令和2年4月1日
(註1)「当面の活動計画について」のコメント欄における、私と大江さんのやりとりを参照のこと。 (註2)デカルトから神を奪ったら独我論になる。自分しか、しかも自分の精神しか存在しなくなる。独我論に陥ることを避けるために、私は自分の実存をかけてデカルトと<対話>をするべきだろう。(4月2日 『方法序説』を読み直しながら。)




大江さん 人間精神は動的なものであり、現時点でのお互いの認識は相対的である。 このことに気が付くことで、イデオロギーから解放され、他者を尊重することができるようになります。
「「原体験」が異なるもの同士が、語り合い、支え合っていく」この共同体は、戦後レジームにおいては希有なものです。
こちらこそ、よろしくお願いします。
阿部君
拝読しました。綺麗にまとめていただいてありがとうございます。
私なりの原体験が何かというのは、実ははっきりしていないのですが、
感覚的には生きていることそのものが「原体験」だと思っています。
その意味では確かに結婚し、
家族を養っている状況の私と阿部君とでは「原体験」は異なりますね。
ただ、そのような「原体験」が異なるもの同士が、語り合い、支え合っていくことこそが、
戦後レジームを脱却するよすがになるのではないかと考えています。
引き続きよろしくお願いいたします。