「天皇主権」の諸問題
- 悠樹 阿部

- 2020年4月2日
- 読了時間: 7分
更新日:2020年8月5日
(※)政治によい影響を及ぼすためには、トマス・アクィナスとは別の態度で哲学をする必要がある。このように考え直した経緯は、田中君の「「生活者」としての思想」に対する私のコメントに認めてある。この論考は当時の私の考えとして残すが、憲法については以後別のやり方で考えを表明するつもりである。(4月4日)
Minimum quod potest haberi de cognitione rerum altissimarum, desiderabilius est quam certissima cogntitio quae habetur de minimis rebus.
(Thomas Aquinas, Summa Theologica, Ⅰ, qu.1 a.5)
最高のことがらについて得られる最小の知識は、最低のことがらについて得られるもっとも確実な知識よりも望ましい。
人間は、たとえば今私の手元にペンがあるといった生活上のことについては、それなりにたしかな知識を得ることができる。
一方で、「天皇」という絶対者、および「主権」という憲法の概念については不確実で暫定的な知識しか得ることができない。
しかし、それについて考えることは善く生きるために大切なことである。
日本における「天皇」というのは、一神教世界における「神」、中国における「天」と同様の絶対者である。
絶対者のもとでの自由・平等が近代国家のあるべき姿である。(註1)
ただ、「天皇」の場合に困難が生じるのは、「天皇」が絶対者であると同時に生身の人間であるということだ。そこから二つの問題が生じる。1.天皇が国体(Constitution=憲法)を否定したらどうするのか。2.天皇も生身の人間なのだから、「天皇」という地位によって束縛することは自由の侵害ではないか(これは当用憲法下での「象徴」としての天皇の地位にもあてはまる問題である)。これらを順に検討する。
1.天皇が国体を否定したらどうするのか。
帝国憲法はそのような事態を防ぐために、ある仕掛けが施されていた。つまり、明治天皇が「皇祖皇宗ノ神霊」に奉った憲法であることによって、後世の人間が改変することが困難だったのである。
もっとも、5.15事件と2.26事件のときに、歴史の事実とは正反対に昭和天皇が昭和維新派に与したとすれば、憲法秩序の大きな変更が行われていたかもしれない。天皇一人の願望ではなくて、国民の一部の運動に呼応するならば、国体の変更が起こりうる。 とはいえ、これは憲法典に「天皇主権」を謳うことの問題であると同時に、当時の世情が不安定だったことに起因する。国体の護持は憲法の運用、すなわち国民の不断の政治参加によるところが大きいのであり、憲法典だけで未来を規定することはどのみち不可能なのである。
2.天皇も生身の人間なのだから、「天皇」という地位によって束縛することは自由の侵害ではないか。
戦後レジームにおいて、「国民主権」は不可分である主権を、各人が独立した人格を持つ国民に帰属させ、それを「一般意思」という全体主義的な概念で糊塗している。(註2)
一方で、「天皇主権」は生身の人間である天皇を、「天皇」という地位に束縛する。
リバタリアンは自分の自由も他人の自由もひとしく尊重する思想である。国民全般に対する自由の侵害も、生身の天皇という一人の人間に対する自由の侵害も、どちらも自由の侵害であることには変わりがない。自分が天皇ではないのだから、天皇に対する自由の侵害には無関心であるというような態度は、リバタリアンのものではなくて利己主義者のものである。
では、生身の人間ではない、「天皇」に代わる絶対者はあるだろうか。日本には「天皇」に代わる絶対者はないと私は思う。解決法として、たとえば、三種の神器を絶対者としての「天皇」とみなすということが考えられる。しかし、個人的な感情であるが、そのようなものに対して崇敬の念が浮かばないのである。
したがって、国家における「主権」の議論を迫られるかぎりでは、「天皇主権」とし、生身の天皇に「天皇」の地位についていただくことをお願いするほかないだろう。
しかし、ここまで議論して考えたことは、国家の「主権」なる記号自体が、日本の国体を論ずるにあたってふさわしくないのではないか、ということである。いずれにせよ、「天皇」のもとで国民が自由と平和を享受し、調和して生きることが私の理想である。
なお、「天皇」を奉ずれば、いわゆる「国家神道」のように、国民や他国にイデオロギーを押し付けるのではないか、と懸念する向きがあるだろう。しかし、その問題はすべての思想に通底するし、人間は思想なしでは善く生きることができない。
すべての思想は自由な個人の実存的な要請によって始まる。しかし、その血で書かれた思想は、時代を経るにしたがって体制化し、他人の思想で飯を食う集団が出来上がる。これは、儒教における諸王朝の官僚制、キリスト教における一時期の教会、諸国の共産党などがそうである。その体制化した思想は自由と文化を脅かす。私はこれを思想のイデオロギー化と呼ぶ。
イデオロギーは個人の自由な思索を妨げ、思考と実存を遠ざける。さらに、イデオロギーはしばしば、自由な人間の精神が集って培い、守ってきた文化を破壊する。これは二十世紀においては特に共産主義に見られた問題であったが、共産主義だけの問題ではない。あらゆる思想はイデオロギー化する危険性を孕んでいる。
だからこそ、リバタリアンと文化防衛論なのである。リバタリアンとして、私は自分の原体験に基づいて自由に思索し発言する。そして、他者がその人自身の原体験に基づいて自由に思索し、発言することを尊重する。文化防衛論者として、私は日本の文化に集う自由な精神の一人になりたいと希求する。そして、他の文化も同様にして防衛されるべきだと考える。
このように生きるかぎり、私が天皇を奉じているからといって、他者の自由を侵害したり、他の文化を破壊したりすることはないのである。
令和2年4月2日
(註1)
たとえば、アメリカ独立宣言を見てみよう。
We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.
われらは次のことを自明のこととみなす。すべての人間(註1-A)は平等に創造されており、造物主によってある不可侵の権利を与えられている。そこには生命権、自由権、幸福追求権が含まれる。
ソールズベリーのジョンからロックに至るまで、西洋の自然法思想は神を法源としていた。
神を捨て去った大陸の自然法思想も、絶対者を捨て去ったわけではない。
フランス革命政府は絶対者としての理性Raisonを法源とする統治を行ったのである。
(註1-A) menという表現がジェンダーバイアスを孕んでいるのではないか、という問題はここではひとまず措いておく。ここでの論題はジェンダーではなく絶対者だからである。
(註2)
ルソーは民主制下の市民としての倫理的責任を自覚して、政治哲学を行っている。彼の言葉には見るべきものがある。 しかし、日本の憲法には日本の共同体の歴史に根差した概念を用いるべきだ。敗戦によって強制された、「市民」citoyen、「一般意思」volonté généraleといった概念からは思想が抜け落ちて、個人を経済的、イデオロギー的に体制に隷属させる口実と堕している。(註2-A)
たとえば、戦後レジーム下では「市民」とは左翼党派性に与している人々の自認である。 また、「公共の福祉」「公益性」などの口実のもとに、政府による恣意的な利益誘導が行われている。「新聞の軽減税率」「和牛商品券」などがそれである。
(註2-A)
田中大 『〈戦後レジーム〉へのある記述論的〈試論〉』
「「市民」という概念は、戦後日本において[不当に]理想化されてきたが、これは本来ヨーロッパの歴史に深く根を張っている〈欧州文化的概念〉である。市民とは共同体や国家と結びつき、それによって支えられて初めて成立するものであった。しかし、戦後日本の〈言論空間〉においては、この〈欧州文化的概念〉は、〈無国籍的文明的概念〉へと抽象化された。これは〈記述のレベル〉の〈階層性〉を無視し、ある〈欧州文化的概念〉によって一元的に〈社会〉を語るということに他ならない。この〈欧州文化的概念〉が普遍的概念として捉えられ、それが日本においても「実現されるべき」ものとして論じられてきたということが、冒頭の引用において述べられている一節の示すところであり、これがまさしく〈戦後レジーム〉という〈制度〉の象徴的側面を為す一つのイデオロギーが生じた消息であるといえよう。」




阿部君
拝読しました。本稿を読んで、
ある種の到達点に達したことを感じました。
「しかし、個人的な感情であるが、そのようなものに対して崇敬の念が浮かばないのである。」という部分は、きわめて重要な指摘ですね。
これは私達が、対話の題材として必ず取り上げるべき話題と言えましょう。
また「血で書かれた思想は、時代を経るにしたがって体制化し、他人の思想で飯を食う集団が出来上がる」という指摘も興味深いですね。
感覚的なコメントで恐縮ですが、
「血で書かれた思想」って一代限りなんじゃないかなって気がします。
阿部君
拝読しました。本稿を読んで、
ある種の到達点に達したことを感じました。
「しかし、個人的な感情であるが、そのようなものに対して崇敬の念が浮かばないのである。」という部分は、きわめて重要な指摘ですね。
これは私達が、対話の題材として必ず取り上げるべき話題と言えましょう。
また「血で書かれた思想は、時代を経るにしたがって体制化し、他人の思想で飯を食う集団が出来上がる」という指摘も興味深いですね。
感覚的なコメントで恐縮ですが、
「血で書かれた思想」って一代限りなんじゃないかなって気がします。