「日本の歴史」を描き直すために
- 田中大
- 2020年4月26日
- 読了時間: 2分
戦後の日本で、自国の歴史を描く際の「基準」となっているのは東京裁判史観である。しかし結局のところ、これは何らの厳密な学問的探究にも基づくものではなく、戦後レジームを正当化するための敗戦利得者の道具でしかないのである。そのことをよく表しているのは、この史観に異を唱える者に対して、しばしば「歴史修正主義」というレッテルが貼られるということである。学問の営みが誠実なものとして、イデオロギーから自由なものとしてあるためには、その中で示された知見が絶えず反証に晒され、常に別の知見から問い直されてゆかなければならないだろう。したがって反証そのものを封じる態度は知的誠実性を欠くとしか言いようがないし、そもそも反証を認めない学問など語義矛盾であって、それは単なるイデオロギーでしかないのだ。彼らがしていることは、古典物理学を問い直したアインシュタインやシュレーディンガーに対して「修正主義」だと批判するのと同じである。もしも彼らが学問的に不適切な歴史の見直しに限って批判しているのだと主張するとしても、そのような批判のために「修正主義」という言葉を用いることは全く適切ではない。
歴史を描くにあたっては、まず前提として、それが実証的かつ論理的な学問的厳密性を具えた手続きに基づいていなければならないということが言えるだろう。しかしその前提を踏まえたうえで、どのような史料を選択し、どのように歴史を描き出してゆくかということを考えるためには、一貫した価値観を必要とする――一貫した価値観をもって歴史を捉えるということは、歴史を一元化して捉えるということと同義ではない――。そのためにはわれわれは自身の歴史哲学を鍛えねばならない。私は、われわれが「悠久の日本文化に責任を負う自由な主体」であることが、日本の歴史を描くうえで鍵になると考えている。歴史とは体制護持の道具ではなく、そのような主体が自己を語る言葉であるべきだ。思考停止で自己批判や自虐に終始する非倫理的な態度から脱して、そのように歴史を語りだすことができて初めて、われわれは自国の同胞や諸外国の他者に対して、本当の意味で倫理的な関係をもつことができるのではないだろうか。




田中君の玉稿、阿部君のコメント拝読しました。
田中君の決意表明大変頼もしく思います。
この問題のややこしいところは、東京裁判史観という表現自体が「アンチ戦後レジーム」とのイデオロギーだとの誤解をされていることです。
結局、戦後レジームの否定というネガティブな表現に留まっているから(「~はおかしい」)、「修正主義」というレッテルを貼られる側面もあるのではないかと思います。
阿部君のコメントにありましたが、「歴史と憲法を敗戦利得者の手中から取り戻す」といった作業としてこの問題に取り組むべきであって、戦後レジームvs反・戦後レジームなどという二項対立的な構図に陥らないようにしていくことが重要かなと思いました。
その意味では、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動は参考にすべきかもしれませんね。もっとも「新しい」のではなく、「本来の」という枕詞にすべきだと私は思います。
http://www.tsukurukai.com/
敗戦利得者が「歴史修正主義」というレッテルを用いて、新史料を用いた実証的な歴史研究、あるいは新しい観点からの歴史研究を抑圧し、「通説」を墨守しようとするのはなぜでしょうか。
現行の日本の体制、ないしは国際体制が社会契約のような自由な主体の合意によって成立したのではなく、第二次世界大戦という暴力の結果として勝者が敗者に押し付けたものだからです。
敗戦利得者が自己の利得を防衛するためには、そのような歴史研究が邪魔になります。たとえば、1995年に情報公開がなされた「ヴェノナ文書」を用いた歴史研究が行われれば、アメリカの左翼、大きな政府を作って既得権益を享受していた人々のうちに、ソ連のスパイが紛れ込んでいたこと、あるいはソ連がそのような人々を都合よく利用していたことが明らかになります。結果として東京裁判史観の正当性が揺らいだり、左翼の権威が損なわれるがゆえに、日本の敗戦利得者にも都合が悪いのです。
憲法をめぐる言説についても同じことが言えます。日本国憲法は議会において採択されたとはいえ、当時日本は占領下にあり、GHQが強要する憲法を否決するという選択肢はありませんでした。しかも、公職追放や検閲が行われていて、到底民主的でも自由でもない政治状況において採択されたのです。占領が終わった後も、「護憲派」が衆院か参院のどちらかで三分の一を維持すれば当用憲法を変えることはできず、戦勝国にとって都合のよい奴隷状態の日本が維持され、敗戦利得者の権益は守られます。結果として、日本国民は70年以上にわたって正統性・正当性を欠く圧政のもとに置かれてきました。にもかかわらず、憲法学者の多くは日本国憲法の下で日本国民が主権者であるという神話を教えています。
歴史哲学(憲法の場合は法哲学)を鍛えたうえで、実証的かつ論理的な学問的厳密性を踏まえて、歴史(ないしは憲法)の見直しを行うこと。これは、制度的なアカデミズムに跼蹐している学者たちが決してしないことです。戦後日本では学者たち―とくに「文系」の学者たち―自体が多くは敗戦利得者だからです。公職追放をはじめとする占領政策の結果として、学者のポストにも戦勝国に都合がよい人物が就きました。戦後レジームの公式のイデオロギーを踏み絵として、公教育における選抜、人事が行われてきました。歴史や憲法を見直すことは彼らにとっては自己否定になるのです。
私たちが圧政の下で奴隷状態に甘んずることをよしとしないのであれば、歴史と憲法を敗戦利得者の手中から取り戻すことが必要です。この営為に従事することは、「悠久の日本文化に責任を負う自由な主体」として生きることを希求する者が、人生の一つの目標とするに足ります。