「生活者」としての思想
- 田中大
- 2020年4月3日
- 読了時間: 4分
私たちは誰しもこの世界の中で大地の上に身を置いて生きていますが、これはすなわち生活者としての側面をもっているということです。肉体を否定して透明な精神として純粋に思索をすることを欲した哲学者たちでさえも、彼岸にのみ究極的な価値の源泉を見出した神学者たちでさえもそうでした。この厳然たる事実を前にして、私たちがそれに対していかなる態度を取るべきかを考えておくことは、私たちが自分自身の思想を形作るうえで非常に重要です。
「生活」ということについてまず言えるのは、どれだけ文明化が進もうともそれが文化と不可分であるということです。生活なき文化に血は通わず、文化なき生活に精神は宿りません。素朴な生活者の感覚は、生きた文化に直接結びついているものです。しかしながら、GHQの占領を経た戦後レジーム下の日本では、生活と文化が切り離されてしまったということもまた事実です。日本文化はもはや生の文化ではなくなったかのようで、それを見つめるときには展示された美術品をガラス越しに眺めているような隔たりさえ感じられます(*)。このような状況の中で、私たちが日本の文化に息を吹き返させる思想を形成するためには、まず前提として生活者の感覚を忘れないことが必要であると思います。
また、生活者であることをあくまで否定し、ひたすら観念の世界に遊ぶならば、思想は現実離れしていきます。大地に根差していない観念の世界で語られる言葉はすぐに生命を失った教条となり、そこから紡がれる思索はイデオロギーになります。イデオロギストが得てして文化の破壊に向かうのは、偶然ではないのです。彼らは純粋な理念から出発して思考するがゆえに、素朴な生活者の感覚を非合理的なものとして排除しようとするのです。戦後日本の「知識人」たちは、「科学的でない」、「封建的である」…といった理由から、こうした素朴な生活者の感覚を、そして日本の文化を否定してきました。時代が移り変わる中で変えてゆかねばならないことがあるのは当然ですが、批判は適切になされなければ徒に文化を破壊するだけです。そして、彼らのように彼岸の論理のみでもって此岸のことがらを全て規定しようとすれば、そこには必ず無理が生じます。
イデオロギーに没入する人間は、その内部の人間とは全く同じ言葉を語り――ゆえに彼らの間に対話は生じ得ません――、外部にいる人間とは言葉を通わせることができないのです。私たちが打ち立てんとする自由人同士の倫理は、イデオロギストの間には成立しないのです。いかなるイデオロギーからも自由であるためには、大地に根差していることが必要であり(**)、素朴な生活者としての感覚を忘れてはならないと考えます。したがって、私たちは思想を形成するにあたって、この意味でリアリストである必要があります。しかし、これは理想を現実に引きずり降ろして妥協するということではありません。理想は理想として保ちながらも、私たちが現にそうであるところの生活者という地点から常に出発して思索してゆくということです。
【注】
(*)三島由紀夫は『文化防衛論』の中で戦後の日本文化について次のように指摘する。
日本文化とは何かという問題に対しては、終戦後には外務官僚や文化官僚の手によってまことに的確な答えが与えられた。それは占領政策に従って、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだった。平和愛好国民の、華道や茶道の心やさしい文化は、威嚇的でない、しかし大胆な模様化を敢えてする建築文化は、日本文化を代表するものになった。 そこには次のような、文化の水利政策がとられていた。すなわち、文化を生む生命の源泉とその連続性を、種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じることだった。すなわち「菊と刀」の連環を断ち切って、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧することだった。
(三島由紀夫『文化防衛論』筑摩書房、2006年、p.35)
(**)ただし、偏狭な民族主義のように、たとえ大地に根差すことを掲げる思想であっても、それ自体がドグマ化して大地に根差すことがなくなれば、直ちにイデオロギー化してしまうということには注意せねばならない。




(8月11日)
「生活と文化が切り離される」ことについて。
これは、エーコとカリエールの対談(『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』)で語られている、「フィルタリング(濾過)」の概念に通底するのではないでしょうか。
「(カリエール)ことによると我々が学校で味わってきたのは、濾過過剰で混じりけのない、それゆえ風味を欠いた文学だったのかもしれませんね。」(p. 156)
「(カリエール)フランス語は、ボワローのような軟弱な古典派によって去勢されました。古典派はある種の「芸術」を想定してフィルタリングを行ったんです。その結果失われた俗っぽい豊かさを多少なりとも取り戻すには、ヴィクトル・ユゴーの登場を待たねばなりませんでした。」(p. 160)
フィルタリングが過剰になると、人間は歴史と生を忘却します。
大江さんが『GHQ焚書図書開封』などに依拠して「戦後体制を解きほぐす」ことに取りくんでいるのは、戦後体制によってフィルタリングされた、私たちの過去を想起するためです。
私たちは、公教育や、博物館・美術館等において、体制に有害でない、去勢された「文化」を提供されます。ですが、そのような「文化」は、私たち自身が文化の創造に参与する原動力とはなりえません。
戦後体制は「体系的な俗物性」「永続的に基礎づけられた野蛮」「非文化の体系」(ニーチェ『反時代的考察』)です。
大江さん
確かに「事実」という語を用いると議論がイデオロギー的になるきっかけになりますし、何よりこれは極めてモノローグ的な表現でした。言論の世界に出て行けば、こういう言葉が命取りになるのですね。ありがとうございます。
具体的には、注に引いた三島の指摘もそうなのですが、GHQ占領下の国語改革が念頭にありました。敗戦によって私たちが新しい言葉を受け取ることになったということは前にお話しした通りですが、それに加えて、こうして私たちが日常的に用いる言葉の表記にそこで人工的に変更が加えられ、伝統的に引き受けてきた文化(特に詩をはじめとする文学)との間にある種の断絶が生じたということが戦後の文化における大きな問題だと捉えています。
田中君 1.「生活者の感覚から出発して、「永遠の相」の下で、「最高のことがら」について思索するには、その結節点を探る必要がありますね。阿部さんのご指摘を受けて、「悠久の日本文化に責任を負う」という態度が、その結節点になるのではないかと考え始めました。」 この「結節点」は、「時間」と「人間の生死」に対する考え方に鍵があるのではないかと思います。三島由紀夫がこれについて重要なことを言っていると「予感」していますが、いかんせん三島の言葉は感性に訴えかけるものが多い。感性が弱ってしまっている今の私ではすぐには読み解けません。美しい風景を見たり、人と交流したりして、感性のリハビリをする必要を感じています。 2.トマス・アクィナスは「神」という記号から出発して、<記述の内部>に入り込んでいくので、イデオロギストになるか神秘主義者になるしかないんですね。だからドミニコ会は異端審問をやる人がいたり、修道院で瞑想にふける人がいたりする。異端審問官のようなイデオロギストは文化破壊者になってしまいます。神秘主義者は一つの生き方として尊重されるべきですが、私たちがそうなってしまうと、政治参加をすることができません。
3.スローガンによる政治:私はツイッターをやって、スローガンを押し付ける政治活動家とそれに集まる「支持者」たちの例をいくつか見ました。そこで「党派性」に疑問を持ったのです。私たちはそのような政治・言論空間に一石を投じたい。ですから、私たちの言葉をスローガンとして受け取らないでほしいこと、「支持者」よりも「朋友」を求めていることを明らかにすべきかもしれませんね。(和而不同)とはいえ、「高貴な嘘」をつかないと世に受け入れられない可能性もあるので、難しいところです。
田中君、阿部君
拝読しました。桜も美しいですが、
お二人の対話も美しいです。
さて、田中君は、「生活と文化が切り離されてしまったということもまた事実」とおっしゃいます。
私の感覚では「事実」という言葉は、便利であって、イデオロギーに堕落しかねない危険な用語だと思っています。
私はこの文章を読んでも何が具体的に「生活と文化が切り離されてしまった」のか分かりませんでした。それはとりもなおさず、田中君の考える「事実」を私が認識していないからです。
田中君が仮に勉強会でこのフレーズをいえば、その事実って何?と聞きます。
ただ、その質問及び回答があれば、田中君の言論は何ら問題なく、
むしろ田中君の言論という土壌に、一つの対話が花開くわけです。
しかし、世の中の人々は、私のように誠実に対応しません。
「事実には事実を」、田中君の思いもよらない事実を持ち出して、
田中君の議論を論理的に批判してくるでしょう。
我々の自律を守っていくためにも、要らぬ反論は受けないようにお互いカバーアップしていきましょう。
阿部さん
生活者の感覚から出発して、「永遠の相」の下で、「最高のことがら」について思索するには、その結節点を探る必要がありますね。阿部さんのご指摘を受けて、「悠久の日本文化に責任を負う」という態度が、その結節点になるのではないかと考え始めました。
>政治によい影響を及ぼすためには、トマス・アクィナスとは別の態度で哲学をする必要がありそうです。
同感です。アクィナスの哲学は神から出発しますから、むしろ活者の感覚をどれだけ排除できるかということがその文体で思索する鍵になるのでしょうね。
またアクィナスについては、彼が生きた時代のヨーロッパではキリスト教神学という一元的な記述のレベルの上でしか思索することを許されなかったわけですが、それが彼の思考の枷になっていたのだろうと思います。アクィナスが晩年に突然『神学大全』の執筆を放棄して、ものを書くことを一切やめてしまったのは、その記述のレベルで考え尽くしてしまって行き着くところまで行ってしまったが、信仰ゆえについにその記述のレベルから出られなかった(あるいはその記述のレベルからぎりぎり出るところまで到達したが、その体験を言語化して新たな思想として構築できるほど自由にはなれなかった)ということなのではないかと私は考えています。
>「血と土 Blut und Boden」という記号から出発して思考する
非常に重要なご指摘です。スローガンというものはしばしば空虚な記号になってしまいます。すると言葉から思想が抜け落ちるだけではなく、そこから危険なイデオロギーが生じてしまいうる。私たちも政治運動の戦略上、スローガンを用いる必要が生じるかもしれませんが、慎重に行うべきですね。