日本を見つめ直す視座について
- Hiroyuki Ohe
- 2020年5月3日
- 読了時間: 3分
倉山満著「13歳からのくにまもり」を一読した。
本書は、日本という文化を「人殺しはいけない」と自然に分かるものと説明し、江戸から明治期にかけて先人の努力によって我が国が大国の地位に上り詰め、その後転落する近代史、戦後においてアメリカのいうことを聞かなければならない状態において、万世一系の皇室が危機に立たされていること、その危機下においても我が国の政治家は、官僚に頼った知性に欠けた政治が行われ続け、ひいては経済の常識も分からない有害無策の政策が行われることとなってしまい、我が国は瀕死に立ちつつあると警鐘を鳴らしている。
1 著者の進まんとするところについて
本書にかかれている事実は、正しいものであるし、著者の危機感や思いには理解できるところがある。本書を読むとわかることが2つある。1つは、著者はもう政治の表舞台に出ようとは考えてないということだ。彼はあとがきで「倉山塾を開いており、緒方洪庵先生には遠く及びませんが、その志を継ごうと思っています」と書いている。敢えてここで緒方洪庵に触れる必然性はなく、彼自身が大村益次郎等になろうと考えているわけではないという本音が見えるところである。もう1つは近代政党を作るのに必要なのは、「党首・シンクタンク・スポンサー」の3つであると書いてあり、著者らがまさしく手掛けんとする「政党DIY」(参政党)、「救国シンクタンク」などの活動の素地が書かれている。
ただ、彼らが誰を「党首」として考えているかは不明であるが、参考となる記載はある。あとがきにおいて「今や、「保守」という言葉は手垢がつきすぎてしまいました。この言葉自体を嫌う人も多いでしょう。しかし、国を思う人々の心に変わりはありません。私は、その心を「くにまもり」と呼んでいます」と記している。これは、著者が、「くにまもり」という名の付く活動につき、手垢のつかない国を想う心の活動であるとお墨付きを与えたということである。そのお墨付きがどれだけの力を有するかはともかく、このお墨付きを受けた人間の中から「党首」なる人物が出ることが当面期待されているといえるだろう。
2 日本を考える視座について
本書の冒頭では、「日本を「人殺しはいけない」ことが分かる価値観」であることを、日本の正当性を論じるかのような文体は、日本人であることを選択可能な状態に置くものであり、日本人とは選択の結果であり、その選択は自らの価値観に照らして妥当かどうかという観点からなされてよいと誤解されないかということ、「日本は素晴らしい国である」と一種の選民思想を標榜することは、歴史に照らして賢明な態度といえるかどうかを強く懸念するところである。
我々がいかなる価値観を有するか、我々がいかに生きるかという問題と、日本人がどのような文化を有した国であるかは次元を異にする問題である。彼らが考える望ましい近代政党となるためには、我が国と相容れない特定の宗教理念を掲げる政党と異なり、人生論には触れるべきではないであろう。
そもそも著者自身が認めているとおり、幕末の人は、知的にも体力も強いのである。我々は強くなければ、この危機にあたることはできないと考え、まず自らの修練に努めるべきであろう。
自らが日本について考えることが誇りを持つというポジティブマインドは大変重要である。ただし、日本について考えることが自己救済(あるいは集団救済)に留まってしまうのであれば、政治運動としてはいささか心もとなくなってしまうように思われる。




倉山塾、参政党界隈の政治行動が見えてきたころです。 彼らは完全に「正義党」気取りで、「俗論党」と見做した他の保守すべてに噛みついています。
今のままでは日本は滅びるという危機感は痛いほど分かりますが、彼らにそこまでの大義は示せていないように思います。
政策が減税一点突破であり、その観点から既成政党の代議士を評論したり、電話やネットで「凸」をしているようです。他の論点を顧慮しないため、戦後日本の真の病根である左翼権威主義には甘くなっています。 少数の「インフルエンサー」とその指令に従う運動員からなる運動で、一人一人が君子であった維新の志士たちとは異なり、政治手法が権威主義的になっていることも気がかりです。 安倍政権を倒したところで、彼らは新日本を創れないだろうし、その責任を負う気もありません。 そもそも、有権者の多くは既成政党、55年体制自体が問題であることは分かりきっているのです。それは「無党派層」が国民の4割を占めることからも明らかです。自民党が延命されているのは、よりマシな政権交代可能な勢力がないためです。
新しい選択肢を示さないまま、自分だけが正義で他人は俗物と断じる態度では、総スカンを食らうでしょう。 動機には賛同できるが、そこで行われている言説と政治手法に大義がないため、自分が馳せ参じる気にはなれないというのがこの運動に対する私の立場です。
(追記1)
私見では、政治運動の大義名分となりうるイシューは、敗戦と戦後政治によって辛酸を舐め続けてきた「無念共同体」の人々を結束する旗印でなくてはなりません。 それは「自主憲法制定、建軍」です。
「減税」は実現は比較的容易でしょうが、その運動は体制内の圧力団体で終わるでしょう。
結局は彼らも「広き門」(安易な道)を選んでしまったということです。
(追記2)
今私たちがすべきことは、彼らの運動に加わることでもそれを批判することでもなく、<戦後レジーム>に対する批判と新しい価値の提示をし、私たち自身の運動を始動することです。
運動暦においては彼らに一日の長がありますから、そこから学べることもあるでしょう。
田中君
コメントありがとうございます。
「〈記述の外部〉を〈内部〉と際限なく剥離」することで思想を純化する」というのは、
とても腑に落ちる表現ですね。歴史的にもよく繰り返されてきたことなのでしょうか。
もっともこの表現を理解することは、多くの人にとって困難を極めそうな気がしますし、
「〈内部〉の内輪で盛り上がって満足するか、はたまた〈外部〉を殲滅すべく聖戦をするか、といった選択肢しかない」ことにはしないようにするという思想が、純化してしまうこともまた問題のように思います(ある意味究極の象牙の塔にこもるようなイメージです)。
記号論に落ちずに、かつ、政治的な存在として影響力を持つためにはどうすればよいかという行動論については、かねてから私の人生を通して見つけるべきであり、いくらかでもそのことを齋藤先生にはお伝えしたいなと思っています。
なかなか一人でやる代物ではないので、今後とも田中君には一緒に頑張ってほしいなと思っています。
田中大君 「私自身の経験から言えば、若かりし頃には政治一辺倒で思考をしていたため、<記述のレベル>◆【De "iustitia" <正義>について】の内部で考察が煮詰まってしまい、現実に対する絶望ばかりが募り、政治参加をすることができなかった。だが、政治と人文学の間を往復するようになってから、政治を論じきったら人文学をして、人文学で血肉にした言葉によってまた政治を論ずるというよいスパイラルに乗ることができている。」 (「自由に生きるということ」)
私が絶望の淵にあったときに、自らの境遇を「国内ディアスポラ」と称していた訳が氷解しました。自分がそこから立ち直ったのですから、私の言論活動そのものがそのような境遇にある人々に対して語りかける言葉になっていると自負しています。私たちの言論活動を世に出すことで、そのような人々との「党派とは質的に異なる団結」が生まれるでしょう。
大江さん
阿部さん
>戦後レジームの社会において、まっとうな人間は既成の政治勢力に代表されておらず、「国内ディアスポラ」のようにして生きるしかない。 そうであるがゆえに、そうした人々のなす言論はイデオロギー的に先鋭化する危険性があるということは言えると思います。記述論的に言えば、「〈記述の外部〉を〈内部〉と際限なく剥離」することで思想を純化し、自ら〈記述の内部〉に籠り、賛同する人々をもそこに閉じ込めてゆくような運動こそ、そのような集団が政治活動をするには一番手っ取り早いということでしょう(*)。しかし、〈他者〉を〈外部〉として規定して――〈他者〉とは〈外部〉ではありません、そもそも記述論的には〈内部〉も〈外部〉もありはしないのですから――〈対話〉を拒否し、賛同する人間だけを〈内部〉に取り込んでゆくような運動は、それによって取り込める人間をみな取り込んだ後には膠着状態になってしまう。そうすると、あきらめて世捨て人になるか、〈内部〉の内輪で盛り上がって満足するか、はたまた〈外部〉を殲滅すべく聖戦をするか、といった選択肢しか残らないと思います。いずれも自己救済以上の活動にはなり得ません。 私たちは、たとえ現実的な運動論の観点から合理的な仕方で人々に呼びかける必要が生じたとしても、常にそれと並行して、〈対話〉ができる人たちに誠実に語りかけてゆく姿勢は貫くべきだと思います。こういう仕方でしか生み出せない団結――党派とは質的に異なる団結――を、少しでも拡げることが必要です。
(*)「言倫」の記事との関連で言いますと、ユダヤ思想も同様に純化された思想ではありますが、ユダヤ教には布教するという発想がないので、ユダヤ教の場合はその思考の〈文体〉がこうした純化を要請するのではないかと考えます。
阿部君
コメントありがとうございます。
参考文献ありがとうございます。手に取ってみたいと思います。
(今は本屋も図書館がやっていなくて手に取れないのが歯痒いですが)
自らが何者であるかという自覚は、それ自体中立的であって、
その自覚に基づいて何をするかによって、党派なり思想なりが出てくると思っています。
私達が活動するにあたっては、自らが何者であるかという自覚は、いわば自明のものとしつつ、我々が何をするべきかという点を中心に活動を続けていくべきかと改めて思った次第です。