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イエスが使徒たちを遣わしたときの言葉

  • 執筆者の写真: 悠樹 阿部
    悠樹 阿部
  • 2021年8月25日
  • 読了時間: 2分

全世界へ行って、あらゆる被造物に福音を触れなさい。(マルコ 16:15)

「あらゆる被造物」に草木国土を含めて解釈することができる。こじつけだが、大乗仏教が許されるなら、このくらいは。


諸君に平安あれ。父が私を遣わしたように、私は君たちを遣わす。そしてイエスは彼らに息を吹きかけて続けた。聖霊を受けよ。諸君が誰かの罪を赦せばそれは赦され、留めるならそれは留められる。(ヨハネ 20:21-23)


こうした記述が意義を獲得するのは、読者が、自分もそこに居合わせた、というドン・キホーテ的な妄想に固執する時である。というのも、キリスト教とは、無知で臆病なダメ人間たちがイエスの復活に立ち会ったことでロゴスに満たされ、スーパーマンになったという物語である。それによって、私のようなダメ人間、羊、ルサンチマンの塊が跳躍するためのものだからである。


ところで、13人目の使徒、パウロはローマ市民であり、かつユダヤ人にもギリシア人にもなれる洗練されたコスモポリタンだった。彼の回心の物語も魅力的だが、私の物語ではないと感じたので本稿からは外した。実はキリスト教はエリートにも救済の物語を提供している。

なお、パウロの卓越した使徒行伝を著した[反]哲学者アラン・バディウは、「21世紀におけるボルシェヴィキの戦闘的人物像を探究すること」を動機としてそれを為している。私は必ずしもキリスト教に満足しないが、普遍性にこだわるなら、レーニン主義者よりはキリスト教徒になったほうがマシだろうと思う。なぜなら、キリスト教では、ペトロの如きダメ人間も、パウロの如きエリートも差別なく、救済という一点に向かう神話に包摂されるからである。他方で、レーニン主義の神話では「前衛」だけが英雄視されて残余には従属的な役割しか与えられない。

 
 
 

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