イエスとピラト 宗教家と政治家について
- 悠樹 阿部

- 2020年8月5日
- 読了時間: 6分
更新日:2020年8月9日
情勢認識
宗教家と政治家の相違は、イエスとピラトの会話に耳を傾ければよく分かります。ヨハネ伝記者は、イエスを完全な宗教家として、ピラトを完全な政治家としてモデル化しています。(1)
私は真理を証するためにこの世に来たのだ!云々とイエスが長々まくしたてたあとに、ピラトが一言。「真理って何だね? τί ἐστιν ἀλήθεια;」(ヨハ 18:38)
この二人は話が全く噛み合っていません。ピラトにとっては、イエスがこのユダヤという地において王を僭称しているのかどうか、その事実だけが問題でした。一方で、イエスとっては王権すらも彼岸の問題でした。完全な政治家は事実のみを語り、完全な宗教家は真理のみを語ります。
私は、ピラトにはもちろん、イエスにも満足できません。
今の世では、宗教家と政治家、真理と事実、義人と俗物の勢力均衡が崩壊し、前者が後者によって滅ぼされてしまったかのようです。――まさに、ローマ帝国に属州化されたユダヤと同様に。私たちがふたたび弁証法的発展の時計の針を動かすためには、政治のうちに真理を持ち込まねばなりません。ですが、真理が私たちだけになってしまったときに、真理だけを語っても誰にも通じません。イエスはピラトに通じる言葉を語らねばなりません。
真理と事実が交わる地平
宗教家と政治家が言葉を交わすなどということは、言うは易くとも行うは難きことです。
真理と事実とが、お互いに純粋性を保ったままで交わることがあるでしょうか。事実のうちに真理を織り込むことtexereは可能でしょうか。
私は歴史哲学のうちにその方法を見出しています。
私が尊敬する歴史家たち、司馬遷、シュペングラー、大川周明は歴史の事実に則して哲学を語っています。彼らからは妥協は微塵も感じられません。歴史を正確に語ることで、現在の我々が何を為すべきか、未来の世界はいかにあるべきかを語ることができます。なんとなれば、永遠の相からすれば、過去も、現在も、未来も一に包摂されるからです。
寛容について
俗物の意見はつねに、思想家の確信を侵犯しようとします。
「あなたの言いたいことはわかった。だが、それが何の得になるのかね?」私たちが政治の場に出ていこうとすれば、必ずやこのような「だが…」に直面します。
このような迫害は戦後体制において頂点に達しているとはいえ(2)、今に始まったことではありません。
伊藤仁齋は、はじめて句読を習ったときから、聖賢の大業を志していました。「男子空しく死すること莫かれ。請ふ看よ神禹の功。」(「登園城寺絶頂」『先哲叢談』に引用)仁齋が若き日に園城寺から琵琶湖を眺めて詠じたこの詩からも、その志が伺えます。ですが、時代は彼が志を遂げることを許しませんでした。17世紀の日本は、長き戦乱の時代を経てようやく安定を得たばかりでした。人びとは道義よりも安定を好んでいました。
それでも仁齋は学びに専念していたので、彼の家は次第に貧窮してゆきました。
親類縁者たちは、彼を心配して利殖をすすめます。
「本邦に科挙はないのですから、勉強しても立身出世のためになりませんよ。」「経書ばかり読んでいないで、医者になって稼いだらどうかね。あなたは頭がいいんだから。」「家族に不足のない暮らしをさせてやることが斉家のつとめではないですか。」(3)
仁齋は己の志を解さない、この無神経なおしゃべりに心を痛めます。「大いに凡俗の尚ぶ所の者は、利に在りて義に在らず。勢に在りて徳に在らず。我を愛すること深き者は、則ち我が讐なり。」(「送片岡宗純還柳川序」)
ですが結局、彼の学を好む心はこの苦悩にうち克ちました。彼は志を曲げませんでした。このような苦悩は、同じ志を秘めた若者が九州から京都まではるばる訪ねてきたとき、自分の原体験として語れる過去のものになっていたのです。
彼は晩年には元禄時代を通過しました。世が物質主義の頂点にあっても、彼は生涯学びて倦むことなく、君子であることをやめませんでした。彼にとって、学ぶことは生きることでした。
他方で、ニーチェは力への意志によって、俗物性をのりこえようとしました。ですが、俗物ばかりの時代において力それ自体を追求すれば、その過程で世に阿ることは免れません。それでは自分が俗物と見分けがつかなくなってしまいます。(4)
俗物との戦いは社会の俗物性との戦いであると同時に、自己の内なる俗物性との戦いでもあります。もちろん、ある境地に至れば、自分のうちの俗物性は消え失せます。ですが、俗物性から完全に自由になったと思っていても、肉的なもので肉的なものに抗しようとすれば、それが再び頭を擡げてくるかもしれません。(5)
彼がついにトリノの路上にて発狂したのは、このアポリアで行き詰まって、彼自身がそこから抜け出せなくなってしまったからではないでしょうか。彼が強さへの道だと考えて突き進んだ先は、実は弱さに通じていたように思えてなりません。
およそ俗物の愛ほど有害で、面倒で、醜いものはありません。ですが、それもまた愛なのだと知ることで、身の周りの俗物を赦せるようになると思います。
(1)このことは以下から示唆を得ている。
オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』 第二巻一章 §3
(2)三島由紀夫は日本がこうなることを予見していました。
「日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
(「果たし得ていない約束」 1970年7月7日 産経新聞夕刊)
この極東の島々からは、今や「経済的大国」の地位すら失われ、俗物性だけが残ろうとしているかのようです。
(3)この三つの台詞は、「送片岡宗純還柳川序」および『先哲叢談』における親類縁者の言動を読んだうえで、仁齋はきっとこのようなことを言われたに違いないという見地から、内容を推定によって改補しています。歴史小説としてお楽しみください。
(4)19世紀のドイツ知識人が教養ある俗物Bildungsphilisterで溢れかえっていた原因は、同時代の他のヨーロッパ諸国と比較すれば浮き彫りになります。
フランスの知識人はサロン的なものでした。そこは主として貴婦人が主催し、貴族とブルジョワが出席しました。フランス知識人は文飾と観念論に傾いてゆきます。
イギリスの知識人はコーヒーハウス的なものでした。そこはブルジョワ中心で民衆にも開かれていました。イギリス知識人は口語体と経験論に傾いてゆきます。
ドイツの知識人は大学的なものでした。そこは官僚制に組み入れられたアカデミズムでした。ドイツ知識人は論文ないし講義録の文体で、専門のことを論じました。
(以上の比較は、升味準之輔「知識人に関する断片」『ユートピアと権力』(下)所収、に示唆を得ている。)
「専門性に没入することは、その気質を肥大化して本然の性を曇らせることです。」(拙稿「法と正義について」)教養ある俗物は自己の専門において事実の認識を拡張することには大いに寄与しますが、価値探究から目を背けています。
(5)あるとき、朱説を奉ずる大高坂芝山(彼も一個の大儒ではある)が仁齋を論駁しました。
弟子のひとりが論争を受けて立つことをすすめます。仁齋はニコニコと笑ったままで何も言いません。弟子は先生がやらないなら私がやりますよ、と重ねてすすめます。
仁齋答えて曰く、「君子は爭ふ所無し。如し彼果たして是にして我果たして非ならば、彼我に於いて益友たり。如し我果たして是にして彼果たして非ならば、他日彼其の學長進せば、則ち當に自ら之を知るべし。小子宜しく深く戒むべし。學を為すの要は、惟だ心を虚にし氣を平らかにして、己がためにするを以て先と為す。何ぞ彼を毀り我を立て、徒に茲の多口を憎まん。」(『先哲叢談』)
彼の学を好む心は、社会の同調圧力を撥ね退けただけではありませんでした。自らの克伐怨欲の心にもうち克ったのです。
令和2年8月4日 阿部悠樹





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