「イデオロギー対立の時代」に寄せて および、橋下徹『政権奪取論』書評 制度内の改良は可能か?
- 悠樹 阿部

- 2019年1月21日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年8月7日
エルサレムに入ったイエスを、群衆は「ホサナ」の歓呼で迎えた。思うにこの群衆は、「ユダヤ人の王」イエスがローマ軍を追い払い、ローマに阿る王侯貴族や祭司らを粛清し、聖地の支配をユダヤ人の手に取り戻すことを期待したはずだ。しかし、二振りの剣ではローマ軍に抗うべくもなく、イエスはあえなく逮捕され、弟子たちも散りじりになった。群衆は期待を裏切られ、「ホサナ」を歓呼した一週間後には、「その男を殺せ」と叫んでいた。
超越的救済を与えてくれるメシアを待望するが、自分では行動せず、期待したリーダーが力の限界を露呈すると失望をあらわにして彼/彼女を見捨てる。これがモッブの本質である。
したがって、ヴェーバーが言うように、正当性を自らのカリスマに負っている指導者は、力の限界を露呈してはならない。
大江さんが前回の投稿において、ヒラリー・クリントンが自叙伝で一切の反省の弁を述べていないことに着目し、「イデオロギー対立の時代」が到来していると指摘した。私はこの考えに賛成である。イデオロギーの時代において指導者は、選挙に敗れたとしても、「反省」をしてはならないのだ。
私は近日、橋下徹『政権奪取論』を読んだ。ヒラリーとは対照的に、著書のうちで多くの「反省」をしている橋下徹氏は、メシアにはなりえないが、よき制度のもとではよきステーツマンになりうる人物だ。
しかし、現代の日本は腐敗と矛盾に満ち、ステーツマンによる改良は行き詰まっていると思われる。
この本に引用されている2018年8月のNHK世論調査によれば、政党支持率を問うたところ、43.2%の回答者が「支持政党なし」と答えたという。日本は「民主主義」国家であると言いながら、実に4割の国民が自分は政党によって代表されていないと感じていることになる。
私も既成政党のどれも支持しない層の一人だ。この層の要求を世論として吸い上げて、自民党に対峙しうる第二の勢力を作るべきだという橋下氏の意見は真摯な提案だし、そのために並々ならぬ労をとってきたことは尊敬に値する。
しかし、かくも多くの国民を疎外している戦後レジームを、橋下氏が提案するような制度内での部分的改良の積み重ねによって、改善することは可能だろうか?戦勝国の代官として日本を支配してきた階級は、衆参両院のどちらかで三分の一を確保すれば、憲法改正の発議すら阻止することができる。この反動勢力は立憲民主党と共産党によって代表されているが、現行憲法をベースとした「改憲案」を提示している自民党も同断だ。このような「改憲」は、現行の体制を国民の同意を得たものとして正当化するにすぎない。
この分厚い既得権益層(学歴を背景とした中産階級が、概ね敗戦利得者を構成している)による大きな政府と縁故資本主義は、ハイエクの言うところの「従わざるもの食うべからず」の社会を作り、周辺化された人民が制度内で抵抗することを不可能にしている。
したがって、現代の日本は、「全般的解放が部分的解放の必要条件である」(マルクスが当時のドイツをフランスと比較して評した言葉。『ヘーゲル法哲学批判序説』)ような社会であり、代表されざる人民を救済するためには、部分的改良ではなく体制自体の変更が、ステーツマンシップではなく哲学が必要とされているのだ。
このように言えば、江藤淳が新左翼と三島由紀夫を「ごっこ」と揶揄したように、橋下氏も私の見解を夢想として取り合わないだろう。しかし、江藤が(恐らくは、「現実的な」改良を目指しながらも「現実」に絶望して)自殺したように、戦後レジームの軛のもとでは改良主義にも未来はない。江藤と三島とを比較すれば、たとえ絶望的な時代を生きたとしても、筋を通して死ねば最終的に思想闘争に勝利しうるのだから(イエスや楠正成のように)、三島の生と死に意義があったのだと私は考える。




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