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「コミュニタリアン」ないし「リベラル・ナショナリズム」について

  • 執筆者の写真: 悠樹 阿部
    悠樹 阿部
  • 2019年1月6日
  • 読了時間: 2分

更新日:2020年8月7日

 少数の哲人は消極的自由が担保されれば、自ら積極的自由を獲得できる。大衆にとって消極的自由は「自由の刑」であり、上位の権威から積極的自由を与えられない限り心の平安を得ることができない。かくして、自らの共同体に安定した秩序を樹立しようとするお節介な知識人と、「積極的自由」を与えてくれる権威を希求する大衆、この両者にとって共同体の伝統に普遍的な価値を織り込んだ語りが必要とされる。


 「リベラル・ナショナリズム」は、普遍的な(リベラリストが「普遍的」だと思っている)価値を、個別の共同体の歴史や宗教に織り込んで語ることで、共同体にリベラリズムを根付かせようとする試みである。


 例えば、十七条憲法の「以和為貴」に依拠して民主主義を語ることは、日本版リベラル・ナショナリズムと言える。


 リベラリズムが政治的な価値にとどまるならば、それは有益な結果を齎すがゆえに善であると主張できる。


 しかし、宗教と歴史という真理をめぐる土俵に上がる以上は、哲学上の方法の妥当性と一貫性、事実に依拠しているかどうか、が問われることになる。政治的な意図を持った語りが、真理の領域に上がりこんで優越した地位を要求すること、ここに哲学と政治の永遠の相克が起因している。



 以上は、マイケル・ウォルツァー 『解放のパラドックス』を読んでの感想ですが、本の内容とは乖離してしまいました。


 ウォルツァーは、イスラエル、インド、アルジェリアを解放した急進的世俗主義の運動が、急進化した伝統宗教のオポジションを招いている実情を描いています。ウォルツァーの「語り」に耳を傾ければ、他の共同体も同様の文脈で理解することは容易であり(例えば、エジプトにおいてはナセルの自由将校団が世俗的ナショナリズム、サイイド・クトゥブのムスリム同胞団が伝統宗教のオポジション等)、現実の説明力に優れた認識の枠組みであると感動しました。


 共同体の外部から強制力によってリベラリズムを実現しようとする政治が、かえって急進化した伝統宗教を生み、文化的資源が脆弱な急進的世俗主義は宗教的反革命に対して劣勢に陥っているのが現状である。共同体の伝統に依拠して普遍的な価値を語ることによって、リベラリズムと伝統の間を架橋することが唯一実現可能なリベラルの政治である。「コミュニタリアニズム」ないし「リベラル・ナショナリズム」がウォルツァーの提示する処方箋でした。


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