コロナウィルスに伴う「自粛要請」の何が問題か?
- 悠樹 阿部

- 2020年3月31日
- 読了時間: 1分
更新日:2020年4月4日
立法をせずに「自粛要請」をすることの問題は、政治家が政治判断をする責任を放棄していることである。
たとえば、「自粛要請」の結果として、あるコンサートが中止されたとする。
すると、そのコンサートに出場する予定であったミュージシャンは自己を表現する機会を失ったうえに、生活苦を受けることになる。
しかし、政治家は「お願い」をしただけだといって、責任を回避するのである。
私は疫学者でもないし、経済学者もないから、「無規制による感染拡大」の被害と「規制による生活苦」の被害がそれぞれいかほどであるのか、見当がつかない。
そこはソクラテスが言うように、「医療のことは医者に、建築のことは建築家に」である。
政治家は専門家の意見を傾聴したうえで、自らの倫理的な責任を自覚して、規制をするかしないかの政治判断を下すべきである。
令和2年3月31日




(追記 6月10日)
疫学者は規制をする場合としない場合の感染者数・死者数をそれぞれ推定することができるし、経済学者は規制が経済に及ぼす影響を推定することができる。
この専門知に関するかぎりでは、一人の専門家の知識は百人の民衆の意見よりも尊重されてしかるべきだ。
だが、「規制をすることが正しいか、正しくないか」という判断、自由か人命かといった価値にかかわる判断は正義という普遍知の場でなされるものであり、その場において専門家は存在しないのである。
ゆえに、民主制においては、選挙で選出された政治家が価値判断を下す資格を有し、官僚と専門家の権限はその判断にかかわる専門知を提供することにとどまるのである。
コロナ対策においては、価値判断を下さない政治家の無責任と、価値判断に容喙する専門家の越権行為と、その両方の問題が浮き彫りになった。
大江さん
法は体制から生じます(註)。 体制が悪ければ法も悪くなり、法的責任と倫理的責任が一致しなくなります。 「戦後レジームからの脱却」のひとつの基準は、「法と倫理が一致しているかどうか」ということに置かれるでしょう。
(註)「法律の原因は体制である。」 レオ・シュトラウス 『政治哲学とは何であるか?とその他の研究』 早稲田大学出版部 p.26
阿部君
拝読しました。
「政治判断をする責任を放棄」という言葉になるほどもっともだなと思いました。
といいますのも、彼らの振る舞いは「法的責任を問われない」ための振る舞いと考えられるからです。
司法においては、行政の裁量が認められていることもあって、「ひとまずここまでやっておけばよい」というラインがかなり曖昧です。
現実に新型コロナウィルスで生命を奪われた方もいらっしゃいますし、生命ともいうべき事業を失った方もいらっしゃいます。そのような方々に対し、行政が「法的責任」を負わないようにする=政治的責任を一定程度果たしているという整理がされているように思います。
話は変わりますが、政治資金規正法の違反を問われたことにつき、司法の判断をもとに行う場合がありますね。全くちゃんちゃらおかしい(ちなみにおかしいのは彼らでなく、どちらかといえば政治資金規正法などの法律なのですが)のですが、世の政治家は、法的責任を負うかどうかをメルクマールにしているように思います。