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テクストの上で宣言するだけでは、政治・社会問題は解消されない

  • 執筆者の写真: 悠樹 阿部
    悠樹 阿部
  • 2021年4月26日
  • 読了時間: 3分

『マルチチュード』にこのような一節がある。

「彼(ハンチントン)はこの文明という幻影を呼び出し、政治の基本をなす味方-敵の区分を再整備するための大いなる図式をそこに見出している。自分と同じ文明に属する者は味方であり、それ以外の文明は敵である、と。さあ寄り集まって良き知らせを聞くがよい――戦争とは文明の衝突にほかならないのだ!

 スピノザは敵や恐怖をもち出すこうしたやり方を迷信と喝破した。また彼は、こうした迷信は常に、永続的な戦争と破壊からなるこのうえない野蛮状態に通じているということをよく知っていたのである。」(註1)


 もちろん、スピノザ汎神論からすれば、世界は一でありその全体が神なのだから、それを悟れば自他の区別は解消する。悟りという次元では、私自身、汎神論的な神に帰依することはやぶさかではない。


 しかし、スピノザとそのエピゴーネンがテクストの上でそう宣言したところで、現にある政治・社会問題が解消されるわけではない。文人は抑圧されて怒っている人に何ができるだろうか?君も悟れば寛容になれますと説教することだろうか?それこそ迷信ではないのか。自分が悟ったとしても、他者は別の価値観に拘泥しているかもしれないし、政治・社会は全く別の原理で動いているかもしれない。自分の幸福で満足するだけなく普遍的な正義に責任を負う、すなわち政治運動をするならば機に対して行動する必要がある。にもかかわらず、テクストの上で観念を操作して対立を解消したと宣言し、「敵を設定するのをやめよう」「分断を煽るな」といったクリシェを導くことはポストモダン左翼のお決まりの作法になっている。(註2)


 もっとも、ポストモダン左翼からは政治に責任を負うといった態度自体がパラノ的で軽蔑すべきものと映るだろう。もし本稿を読んでいるポストモダン左翼がいれば、私をあなたから切断していただいて構わない。他者の境遇を含めた政治的現実に責任を感じる者と、隠逸を気取りながら特権だけは決して手放さない者、現にここには分断が存在するのだから。(註3)


(註1)アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著 『マルチチュード』 NHKブックス邦訳版上巻、p. 77


(註2)私たちは<帝国>と戦っているのであって、敵を設定することを否定しているのではないという反論が予想されるだろうか。であれば、論敵を非難するときにのみスピノザを持ち出して、「敵や恐怖をもち出すやり方」に反対することはダブルスタンダードである。


(註3)愛知トリエンナーレの存在が私たちに突きつけたのは、今の国家は左翼がやることであればいかにデタラメでも権威と金を付与するということであった。

現代福祉国家は金の配分をするだけなく、国民生活を「ゆりかごから墓場まで」管理することによって価値観を再生産していることを見落としてはならない。たとえば、公教育は現行憲法体制のコンフォーミストを再生産する装置である。


 
 
 

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