デカルトの政治参加
- 悠樹 阿部

- 2020年4月2日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年8月10日
Ma troisième maxime était de tâcher toujours plutôt à me vaincre que la
fortune, et à changer mes désirs que l'ordre du monde.
(René Descartes, Discours de la méthode, Troisième Partie)
私の三つ目の格率は、運命よりも私自身にうち克つように、世界の秩序よりも私の欲望を変えるように、つねに努めることであった。
最初にこの言葉に触れたとき、デカルトは政治参加を否定し、現実に対して責任を負うことを拒否している無責任な観念論者だと思った。しかし、今ではデカルトは必ずしも政治参加を否定したのではないと考えるようになった。
デカルトは自分の思想を持たないままに政治参加をすることで、党派性に飲み込まれることを戒めたのである。
デカルトが生きた時代は、宗教戦争の全盛期であった。
彼自身が傭兵として、皇帝の即位式に列席していた。(註1)
「カトリック」「プロテスタント」という宗派に属することでしか政治参加ができない時代であったため、彼はひとまず世を避けて「炉部屋」で思索し、自分の思想を持つことに専念したのである。
しかも、デカルトは思想を持ったのちにも、政治参加をしている。
それは、スウェーデンのクリスティーナ女王を啓発することによって行われた。(註2)
クリスティーナ女王はウェストファリア会議において、「宗派が異なるからといって殺す必要はない」と発言して一同の怒りを買ったという。
だが、「ウェストファリア体制」は宗派を異にする国が共存するための便宜として確立され、現代に至るまでの国際体制に影響を及ぼしているのである。
(註1)
デカルトが傭兵として三十年戦争に参加し、その後に「炉部屋」に籠った経緯は『方法序説』第二部の冒頭を参照されたい。
(註2) クリスティーナ女王の父グスタフ・アドルフは、プロテスタント諸邦の総帥として三十年戦争を主導した。グスタフ・アドルフはその時代かぎりの「勝者」「英雄」である。 一方で、クリスティーナ女王は永遠の相のもとに振る舞い、その時代において政治的敗者となるリスクを負ってでも、後世に「ウェストファリア体制」という贈り物を残した。





デカルトの全集には多くの書簡が含まれており、その中にはクリスティーナ女王とのやりとりもあったと記憶しています。 本気でこれを論じるのであれば、それらを研究する必要があるのでしょう。 私の本分は政治なので、「予想」だけを立てて研究は後世の学者に任せようと思います。
阿部君
拝読しました。
既に「生活者」としての思想のコメントで言及されているような気もしますが、
「クリスティーナ女王は永遠の相のもとに振る舞い、その時代において政治的敗者となるリスクを負って」との部分は、どうしてそこまで振る舞えたのかは気になるところですね。
世界史講座のどこかでクリスティーナ女王について触れる機会があればいいなと思います。