<リバタリアン>の人性論
- 悠樹 阿部

- 2020年3月31日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年8月10日
私たちはいかにして、私たちの運動を広げていくべきか。 哲学、つまり「概念を鋳直す営み」に従事しながら、私たちの血肉となった言葉をいかにして政治の場で実現していくべきか。
これは人性論に関わる問題である。
1.性善説をとり、他者が私たちの言葉に啓発されることを期待する。(註1)
2.性三品説をとり、哲学は「上知」にだけ期待し、「中人」には結論を受容してもらい、「下愚」には権力で結論を押し付ける。
3.性悪説をとり、私たち以外には権力で結論を押し付ける。
なお、自他の自由な精神を尊重する<リバタリアン>の人性論は性善説である。
性善説をとる意義として、こちらが赤心で動いていないかぎり、相手を真に啓発できないということがある。(註2、註3)権力で結論を押し付ける勢力になることによって、「支持者」や「ファン」を多く獲得できることはあるだろう。だが、それでは「概念を鋳直す営み」(註4)を共有する同志を得ることはできない。私たちは、百人の<友>を得ることよりも、一人の<朋>を得ることを重んじるべきである。
私たちは、韓非子、マキャベリ、ホッブズの言っていることが現実の認識としてかなり正しいことを認めつつも、運動論としては決して受容してはならない。
私たちは彼らのような「現実主義者」つまり、現実に合わせて目標を引き下げる人々になってはならない。
そうではなく、永遠の相に照らして現実を改善していくべきである。(註5)
令和2年3月31日 阿部悠樹
(註1)哲学は驚きからはじまる。私たちの言葉が他者に驚きをもたらし、他者の哲学の出発点となれるかどうか。それは私たちの日々の鍛錬による。
(註2)至誠而不動者未之有也 (『孟子』 離婁章句上)
至誠とは、たんなる心もちではない。 「平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず」
これは、吉田松陰が、死刑を言い渡されたのちに、家族に宛てた書簡の一節である。
至誠とは、心もちだけではなく、学識と実行力を含んだより広い概念である。
なお、誠の概念については、『孟子』よりも『中庸』に詳しい。
(註3)明治維新のとき、長州の志士たちを啓発したのは孟子であった。吉田松陰は獄中においても、囚人たちに孟子を講義したという。
(註4)私は「概念を鋳直す営み」の成否を、悠久の日本文化という枠組みでとらえている。三島由紀夫が今の私たちに感銘を与えるように、澆世で成功することがなくとも、私たちの「瞠目すべき正論」が後世の人間を啓発するかもしれない。
もちろん、理想としては、私たちが生きている間に戦後体制を克服することである。
(註5)レオ・シュトラウス 『政治哲学とは何であるか?とその他の研究』 早稲田大学出版部
マキャベリ以降の近代の政治哲学が、古代の政治哲学よりも優れているとはいえない。 古代・中世の哲学者たちが「永遠の相のもとに」(註5-A)思惟していたのに対して、マキャベリは現実に合わせて目標を引き下げただけである。
もっとも、実際問題としては、現実と妥協しなければ社会において影響力を持てないということはあるだろう。しかし、その場合でも、私たちの活動の本義は永遠の相にあることを忘却してはならない。付言すれば、現実と妥協して政治をしている人々はすでに日本にいくらでもいるので、私たちがその労をとることもないと考えている。哲学をし、至誠をもって振る舞い、後世に義を示すことは私たちにしかできないことである。
(註5-A)「永遠の相のもとに」sub specie aeternitatis(スピノザ)とは、時間のなかの事実の枠にはまるのではなく、永遠の真理の観点からする最善に従うことである。
私たちは悠久の日本文化に対して責任を負う。
また、不完全な存在ある人間は、真理に王手をかけることができても、確定した真理に到達することはできない(オルテガ)。したがって、人間は常に、その時点で暫定的に「最善」であると考えることに従うのである。




大江さん 「性善説的に考えるのが望ましい場面(例えば、対話)と
性悪説的に考えるのが望ましい場面(例えば、国家の運営)とがあるのではないでしょうか。」
これはまさに、プラトンが言っている「高貴な嘘」のことですね。
<朋>との対話を通じて思想を形成する過程では、性善説的に考えることが望ましい。 しかし、同様の方法で国家を運営できるかは別問題です。 「高貴な嘘」をつかねばならないときが来るかもしれない。 しかし、私は今の時点では「孔孟の教え」を信じたいのです。 「必ずや名を正さんか。」(『論語』子路篇) 「王何ぞ必ずしも利と曰わん。亦た仁義あるのみ。」(『孟子』梁恵王章句上) この二つの章句はどちらも、政治の場において筋を通すことの大切さを教えてくれます。
阿部君
拝読しました。
それぞれの営みに、私達が納得できるかどうかという意味で
「永遠の相」という視点は有意義だと思います。
他方で性善説と性悪説というのは、私の感覚では、
シチュエーションによって使い分けることが可能な議論だと思っています。
性善説的に考えるのが望ましい場面(例えば、対話)と
性悪説的に考えるのが望ましい場面(例えば、国家の運営)とがあるのではないでしょうか。