リバタリアンの国家論
- 悠樹 阿部

- 2020年3月29日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年8月11日
政治における自由とは、強制からの自由である。リバタリアンとは、自己の自由と他者の自由をひとしく尊重する思想である。
リバタリアンの国家論は無政府論と最小政府論に分かれる。
極論すれば、政府が税を徴収したり、規制を設けたりすることは、すべて政府という権力が個人の自由を侵害する事態である。そこで、無政府論の立場をとるリバタリアンもいる。
しかし、自由の侵害は政府のみによって行われるものではない。政府以外のアクターによるより重大な自由の侵害を防ぐため、最小限度の政府は必要であると私は考える。
最小政府論を採ると、なにをもって「最小」とするのかという更なる問いが生じる。それは、人間の自由を守るために政府がすべきことである。 具体的には以下の二点であると私は考えている。 ・暴力や脅迫などの他者からの強制により、国民の自由が侵害されることを防ぐ。(刑法と国防)
・個人間の自由意志に基づく契約が履行されることを担保する。(民法)
これらは徹頭徹尾、自由の観点で運用されるべきである。戦後レジームの「大きな政府」「福祉国家」が行っていたような、「公共の福祉」「公共性」という全体主義的な観念を口実にして、個人の自由を毀損するという事態を警戒すべきである。(たとえば、特定分野への補助金や軽減税率、使い道を定める福祉などである。)
ただ、実際問題としては、所得の再分配を一切廃止するこということは困難であろうし、様々な事情で社会参加が難しい人々に対して冷酷であるかもしれない。そこで、(政治的自由の観点からは)妥協として所得移転を行うにしても、政府の恣意性が介在する余地が少ない、全国民に対して一律のベーシックインカムの給付という形で行われるべきである。政府の規模と恣意性の両方を増すよりは、規模だけを増したほうがマシだからである。政府がその使い道を指定する強制加入の医療保険などは廃止されるべきで、医療に使うかそのほかの使いたいことに使うかといったことは当人の判断にゆだねられるべきである。 令和2年3月29日 阿部悠樹





大江さん 公開のまま議論を続けるのか、非公開でやるのかということは検討に値する問題だと思います。 ツイッターをやって、思想を失った空虚な言葉が飛び交う党派的な政治・言論空間の実情を垣間見ました。 我々が思想を確立しないまま、群衆のなかに出ていくことは極めて危険かつ無益です。 まずは大江さんたち朋友とともに、思想が抜け落ちた言葉を鋳直すことに注力すべきだと考えるようになりました。 民法について 「個人間の自由意志に基づく契約が履行されることを担保する。」 これだと、債務者が無一文だったときに政府が弁済するのかという話になり、今よりもむしろ「大きな政府」になりかねませんね。 そこは「自治」に任せるべきなんでしょう。
阿部君、拝読しました。
こちらのブログは、公開されているのですが、
対話形式であれば、誤解されるおそれもないと思いますので、このまま「公開」のままコメントしますね(以下全ての記事で同様ですが、逐一言及しません)。
最小限の自由ということですが、刑事法に関しては、刑罰という実力を行使するために、確かに国家の必要性を基礎づけますし、歴史の展開にも合いますね。
他方、民事法についていえばどうかといえば、基本的には「自治」の世界ですから、国家の必要性を直ちに基礎づけるものではないと思います。そもそも裁判で勝っても、相手に金がなければ、お金の回収はできないんですよね(近代の民事法では、お金が払えないからといって牢屋にぶち込むことはできませんので、結局一文無しが得するという謎の事態が生じています)。
このような法の運用を踏まえて、国家の意義について考えると面白いと思います。