人はなぜ党派性に陥るのか?
- 悠樹 阿部

- 2020年3月29日
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人は学識と熱意があっても、党派的な政治にのめりこむことがある。 それは思想を持ち、アイデンティティを明らかにすることを怠るからである。 「私が何者であるのか」ということを明らかにし、それを本義として政治に臨めば、批判をするにあたっても自分の思想に根差した真正面からの批判になる。 そうでなければ、自分の属する党派の「敵」とみなしたもの、あるいは個人的な怨念を感じている相手に対して、低俗な揶揄を行うことになる。 学識と熱意があればあるほど、それが揶揄のために動員され、一層激しいものとなる。 このような過ちは、私が過去に散々陥ってきたものである。 アイデンティティを規定することは難しいことだが、多様な人と出会う政治参加の場においては必要なことである。 今後、私は政治参加をするにあたり、「文化防衛論者」兼「リバタリアン」を名乗ることとした。そのアイデンティティに基づいて、『私の憲法論』『リバタリアンの国家論』の短い二編を著した。 人間精神は死んだものではなく動的であるから、これらも「今の」私の国家論にすぎない。 しかし、これから実存をかけて政治に臨むことについては揺るがせにしない決意である。 令和2年3月29日




田中君 「自己のアイデンティティの規定というものはさしあたり自分の立場・思想を整理するための出発点、あるいは他者に自分を理解してもらうための「取っ掛かり」くらいに考えるのがいいのではないかと思う次第です。」 そうですね。 公共の場に出ていくにあたって、「自分が何者であるか」を他者に理解してもらうために、自分を言葉で規定せざるを得ない。 しかし、あくまで私は私であり、それは動的なものである。 思うに、一番重要なことは「自由な精神が日本文化に集う」ことであり、経済政策などの個別の政策の話は二の次だし、それをもとに党派を組むということは有害無益です。 私にとって「自由」は各人の人間精神の自由であり、それを互いに尊重することが「リバタリアン」という生き方です。その前提条件として、政府の専横を排するべきである(最小政府論)と考えていますが、政策論はあくまで暫定的なものです。 p.s. (3月31日) 「identifyとは時間を通じて同一のものとして特定するということですから、自己のアイデンティティの規定とは常に人間の動的精神を前にした便宜的な規定に過ぎず、そこには常に逡巡があって然るべきだと私も考えています。そしてそれに拘泥する限り、精神の端的な自由はあり得ないし、精神の端的な自由がなければ思想は生じ得ないはずです。」 いわゆる「分断」を煽る政治のことを、政治学では「アイデンティティ政治」などと呼びます。「性別」「人種」「宗教」などに人を分類して、それに基づいて党派を作る政治です。このような政治に他者を巻き込むことは、その人をアイデンティティに拘泥させ、精神の端的な自由を奪うことです。我々が厳に慎むべきことだと思いました。
阿部さん
非常に重要な考察と思います。「思想を持ち、アイデンティティを明らかにすること」は政治的実践においては不可欠であると私も考えます。しかし、同時にそのアイデンティティに拘泥しすぎることがあってもならないと思っています。
党派性の強い人間というものは、程度の差はあれ何らかのイデオロギーに囚われているのだと私は思います。イデオロギーによって敵と味方が峻別されるから党派を組むのです。
そして人がイデオロギーに囚われる原因の一つは、あるアイデンティティによって自己を絶対的に規定してしまうことであると思います。
例えば、「女性」という要素を自己の最も根源的なアイデンティティとする人はフェミニストになるでしょうし、「○○民族」という要素を自己の最も根源的的なアイデンティティとする人は民族主義者になるのではないかと考えています。自己を絶対的に規定するアイデンティティが要請するイデオロギーにのめり込んでしまうわけです。
identifyとは時間を通じて同一のものとして特定するということですから、自己のアイデンティティの規定とは常に人間の動的精神を前にした便宜的な規定に過ぎず、そこには常に逡巡があって然るべきだと私も考えています。そしてそれに拘泥する限り、精神の端的な自由はあり得ないし、精神の端的な自由がなければ思想は生じ得ないはずです。
自己のアイデンティティの規定というものはさしあたり自分の立場・思想を整理するための出発点、あるいは他者に自分を理解してもらうための「取っ掛かり」くらいに考えるのがいいのではないかと思う次第です。
阿部君、拝読しました。 自らの振る舞いを「過ち」と評価するのは、ご自身を奮い立たせるための強壮剤であると理解しました。
私たちは(良い意味も悪い意味も)互いに評価し合う集団でありたいですね。