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哲学の使命――戦後レジームを崩す新しい言論のために

  • 田中大
  • 2020年3月29日
  • 読了時間: 2分

大江さんが投稿された「これからの活動理念」に寄せて、哲学をしている人間の観点から、一つの考察を投稿させていただきたいと思います。

日本国憲法が制定されて70年以上の年月が過ぎました。この長い時間の中で、この国のあり方について多種多様な議論がなされてきましたが、その中には愚論ばかりではなく、瞠目すべき正論も存在していたということを私たちは知っています。しかしどんな正論も、この戦後レジームの言論空間の中でかき消されてしまい、結局は何も変わらずに現在に至っています。今では全ての議論が尽くされてしまったかのような閉塞感さえ漂う中で、右派と左派が水掛け論を続けているのです。

この言論空間の閉塞感が生じた原因の一つは、主要な議論が長きに亘り何度も反復される中で、それらがみなパロディ化してしまったことにあると考えます。たとえ正論を言っても、受け手は即座にそれを「憲法押し付け論」、「憲法無効論」…等といった既存の議論の型に分類し、既存の議論の反復として受け流します。思想が言葉から抜け落ちて、言葉はその力を削がれてしまうことになります。議論はわずかばかり見識を広げるための情報でしかなくなり、たちまち消費されて見向きもされなくなります。

したがって、現在のこの国を変えていくために言葉を語るなら、正論を繰り返すだけでは不十分だと私は考えます。今の私たちが人々に訴えかけるためには、新しい言葉でそれを言わねばなりません。そして新しい言葉を語るためには、哲学をすることが必要です。哲学とは、概念を鋳直す営みです。概念を鋳直すことで、私たちは自らの思想を鍛え、自らの語る言葉の原初の生々しさを蘇らせることができます。そのような営みを経て繰り出される言葉だけが、衝撃的な体験として人々に受け止められ、彼らの内に問題意識を生じさせることができると考えます。70年以上も続いているこの体制を打破するためには、このようにして人々の発想を変える種を蒔いていくことが肝要です。そしてこれこそが今の日本の言論空間において、哲学が果たすべき使命であると私は確信しています。

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6件のコメント


田中大
2020年3月30日

大江さん


ありがとうございます。こうした仕事をライフワークとし、哲学徒としてアンガジュマンできればと考えております。

まずは何かしら一つの成果を形にすることを目指して課題に取り組み始めたいと思います。

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Hiroyuki Ohe
Hiroyuki Ohe
2020年3月30日

田中君

 コメントバックありがとうございます。

 戦後日本人が受容した「新しい言葉」について「哲学」して頂くのが田中君の一つのライフワークになれば、大変頼もしいですね。

 田中君が物書きとして大成するかどうかをみるにも、一つ取り組む課題が出来たような気がします。もしトライアルが作れそうであれば、5月の勉強会でチャレンジしてみてください。


阿部君

 コメントありがとうございます。

 団体名については、我々がどのような団体になるのかという点も踏まえて考えましょう。

 正名会という医療社団法人があるようです。面白いですね。


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田中大
2020年3月30日

阿部さん


確かに党派的な言論というものには思想がありませんね。それはたとえ思想に基づいていても、ドグマ化された思想でしかありません。

思想がドグマ化するというのは、プラトンがプラトン主義になるとか、デカルトがデカルト主義になるといったことですね。このようにして思想がドグマ化するとき、思想は凝固してイデオロギーとなり、それを奉ずる者たちが党派を組むのだと考えます(単なる利害関係で党派を組むような場合を除いては)。

それに加えて、私が記事本文で書いたように、言葉が繰り返される中で空虚化するということもある。言葉の使用者が惰性で言葉を用いるようになっていくということですね。


このようにして生命を失ってしまった言葉に再び命を吹き込むことが喫緊の課題だと思っておりますが、しかし我々は現在もっている概念から出発するほかないということも事実です。そこを出発点として、少しずつでも前進していけたらと思っています。

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田中大
2020年3月30日

大江さん


>敗戦及び日本国憲法の存在によって、私達は何かを「新しい言葉」として受容させられたのだと思っていますが、その言葉を探求するのはヒントになりそうですね。


非常に鋭いご指摘です。まさに敗戦とその後の占領政策において日本人は「新しい言葉」を受容させられ、それが左派によって現在まで再生産され続けているということだと思います。それに乗って議論している限りは、保守は左派の議論を覆せないのではないかと感じています。

私たちが概念を鋳直すにあたっては、その歪められてしまっている概念が戦前においてもともとどのようなものであったかを考証し、そうすることでまずは現在持っている概念を一度相対化してみることが重要だと考えます。

私としては、「新しい言葉」というものは、文化や歴史に根差したものとなるべきだと考えています。私たちが日本語で哲学する限りはそのようにならざるを得ないでしょうし、そのようにして概念を鋳直していくのが、日本人にとっては最もよいはずであると現時点では予感しております。

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悠樹 阿部
悠樹 阿部
2020年3月29日

私が過去の党派的な言論に感じていた虚無感について、その訳が氷解しました。 思想を失った言葉に再び生命を与える、「概念を鋳直す」営みを共に行っていきましょう。 田中君の言論を受けて、私たちの会の名称の一案を私から提案します。 それは「正名会」です。 政治において「名を正す」すなわち、筋を通すというのは、言葉を自らの血肉にする哲学者の営みがあってこそ生じるものです。 「述べて作らず」というのはつまり、概念を鋳直していたんですね。 もっとも、儒教もまた使い古された思想ですから、我々が「腐儒」と誤解されるおそれはあります。 そもそも、世に出せる形で思想を確立していない現段階において、我々が何かを名乗るべきなのか否かということも含めて、会の名称について検討できればと思います。 p.s. 「会の名称」とは、今まで「国家戦略チーム」と呼称されてきた場所のことです。 戦後レジームのもとで、「国家」「戦略」という言葉は生命を失い、空虚な、冷たい印象を与える言葉になっています。今後、「国家戦略」という言葉を世に出すことがあるとしても、それは我々がその概念を鋳直したあとです。 「CubicArgument」については、大江さんが「活動方針」で書かれている通り、名称も含めて保存されるべきです。

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