国体論 戦後体制における忠孝の不可能性と、国体再興の方法について
- 悠樹 阿部

- 2021年6月7日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年10月13日
士規七則と教育勅語を読んで分かるのは、「日本の国体」とは、忠孝を本とするということです。
ですが、戦後体制において、私たちが父母・祖父母世代を敬うことは、即ちそれ以前の先祖に唾を吐きかけることである、というジレンマがあります。天皇も、現行憲法下の「象徴」として機能しており、上皇陛下はそれに親和的な発言をしていました。
明治維新から敗戦まで、「日本の国体」は歴史において肯定的な役割を果たしました。しかし、もはや戦後76年目となり、私たちの「君」「父」たるべき人は存在しません。
私は今や、人が個として、真理であり正義である神に向き合う、という一神教のほうに惹かれています。あるいは、国体を再興するにあたっては、「玉骨はたとひ南山の苔に埋まると雖も、魂魄は常に北闕の天を臨まんと思ふ。もし命を背き、義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらず」という後醍醐天皇の遺命に還帰し、「命を背き、義を軽ん」じた戦後体制を否定し、新たに理念的な朝廷を樹立すべきと考えます。
理念的な朝廷 「皇祖皇宗」の霊を奉じる、あるいは、後醍醐天皇の魂魄が常に北闕の天に輝いていると考える。キリスト教における聖霊としてのイエス論、シーア派における隠れイマーム論、法華経における久遠仏論を参照しうる。
私はむやみに今上天皇を否定しようとするのではない。今上天皇が正道に戻ってくださるなら、それに越したことはない。しかし、今や朝廷は淪喪しつつある。私たちは次の時代を考えておく必要がある。
(補足)
このような考えは、今の日本ではあらゆる方面から怒りを買うか、黙殺されるかだろう。
しかし、ヨハネの福音書記者がイエスをロゴスに高めたように、実在の天皇を理念的な天皇に高めることなくしては、日本は存続しえないと私は信ずる。
なぜなら、戦後体制において、「君」「父」は腐敗堕落を極めており、まっとうな人間が心から忠孝にコミットすることは不可能だからである。このままでは、誰にも支持されない「日本」という観念が残るのみとなり、人心に根差した<日本>は滅びるだろう。(舜の両親は彼一人を殺害しようとしたのみだったのでまだ孝が可能だったが、今や私たちの「君」「父」は仁義を賊なっている。)
私は三島よりも近代化されているので、大御心が変わるまで待つ(すなわち、敗戦利得者たちの奴隷であり続ける)か、あるいは死ぬかという二択を、どちらも受容しえない。
もちろん、最善はどこかで大御心が変わることである。
私の<勤皇の心>について言えば、天安門事件の後に天皇が訪中して虐殺者にmoral supportを与えたことを知ったとき、幼時にそれは冷え切ってしまった。
また、その天皇(今の上皇)が、「なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います」と発言されていたことを知り、長じては努めてこの堕ちた太陽を見まいとしてきた。
しかし、国体を論じるとなると、大御心を度外視して、法の形式論だけを玩ぶのでは限界がある。ここに至って、私はこれまでの欺瞞を捨て去り、戦後体制の腐敗堕落を、皇室のそれを含めて直視せざるを得なくなった。
吾国は萬葉一統であり、放伐はない。
天皇が残賊であったり(武烈天皇)、外戚が人格に難のある人物だったり(藤原道長ら)、といった困難に逢着しても、日本人は皇統をお守りしてきた。
しかし、それが天壌無窮であることは私たちの祈りであり、歴史の現実に照らしたときには、これまでが僥倖だったのではないか、という疑念は拭えない。
天皇も一個の人であるからには、上述二点の道義的な罪をすべてときの政府と宮内庁に帰して、天皇を免責することはやはり難しいだろう。しかし、その孫の代ともなれば、戦後体制下で生じた醜悪な言動からは自由でありうるし、大御心も今の上皇とは異なるかもしれない。私はそこに希望を見る。
私は、いわゆる保守論壇で盛んに行われている、継承順を云々する議論には見識がないし、さして関心もない。(女系天皇は原理的に不可なので論外だが、男系の女性天皇であれば文句を言うつもりもない。)悠仁様であれ、敬宮様であれ、どちらが皇位に即かれても、私は素直に<勤皇の心>を持つことができるだろう。政治的な党派性に毒されていない多くの国民も、おそらくは同じ心であるはずだ。
しかし、今の上皇陛下が重ねてきた過失を考えると、それまで日本人の皇室への崇敬は保たれるのか、些か危惧せざるを得ないのである。また、皇室がよい方向に変ってゆくという保証もない。
そこで、私としては、皇室が正道に戻ることをお待ちすることを第一としつつ、日本人が善く生きるための非常手段として、理念的な朝廷の樹立も勘案せざるを得ないのである。読者におかれては、どうか私の苦衷を察していただき、くれぐれも「反天皇制」論などには利用することがないようにお願いしたい。




阿部君
コメントありがとうございます。
阿部君が現時点でのご自身の意見を表明することは、とても意義のあることだと思います。
今後も随時ディカッションをさせてもらえればと思います。
阿部君
拝読しました。
末尾に「読者におかれては、どうか私の苦衷を察していただき、くれぐれも「反天皇制」論などには利用することがないようにお願いしたい。」とありますし、
敢えて「このような考えは、今の日本ではあらゆる方面から怒りを買うか、黙殺されるかだろう。」と論じる必要はないように思いました。
古事記や日本書記、さらには神皇正統記を読むと、我が国の場合は、天皇=德があるといったいわゆる「帝王」としては位置づけられていないように思います。「帝王」と位置付けられたら、無能ならば王朝ごと廃されてしまうように思います。
ある意味「適当」だからこそ続いてきたのではないかと思います。それが「素晴らしい」わけですよね。
私たちが、まともに生きていることを社会ひいては「君」にお届けできればいいですね。
これからも一緒に頑張っていきましょう。