断章取義について
- 悠樹 阿部

- 2021年5月24日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年5月27日
in terra pax
地球に愛を
僕らに夢を
私はもともと公教育で強制される合唱は嫌いだが、この歌詞にはとくに、釈然としないところがあった。なぜなら、それが歌われている教室には、派閥的な対立と、いじめとがあったからである。
長じて元のラテン文を知るにおいて、その違和感は解消され、確信に高まった。
in terra pax hominibus bonae voluntatis
“善意の人々に”地において平和あれ
この祈りは、「善意の人々に」という与格による限定を受けている。
私はここに、不信仰者は、悪意の人々はゲヘナに落ちるべし、というキリスト教徒のルサンチマンを見る。
もちろん、ルサンチマンという低俗な感情は捨て去られるべきであるし、自己犠牲をしてなお、むしろ自己犠牲のゆえに、<テテレスタイ>の境地にあったイエスには、一切のルサンチマンは認められない。(※)
しかし、人間のドロドロした感情を無視して、「平和」という音を唱えるだけでは、地に平和をもたらすことは不可能である。平和主義者たらんとすれば、その意味での政治的リアリズムを有たねばならない。
(※)<テテレスタイ>は、ヨハネの、完璧な宗教家としてモデル化されたイエスである。
マタイの、<エリ・エリ・レマ・サバクタニ>のイエスには、ルサンチマンを認めることができる。
史的イエスは、おそらくマタイのイエスに近かったろう。
しかし、キリストに倣うことimitatio Christiにおいて、私はヨハネのイエスを取るのである。
現代人が、ラテン文を、与格による限定を無視して切り取り、ドグマ化することは、これにとどまらない。
docto homini et erudito vivere est cogitare
“博識で教養ある人間にとって”生きることは考えることである
キケロは、すべての人間がインテリになるべしと言ったわけではない。
しかし、今ではこの文章は、「生きることは考えることである」と切り取られて、インテリの座右の銘となっている。
そのような<読み>は、人間の実存を、多様な生の喜びを捨象して、すべてインテリ性に還元する。古典を、<今、ここ>の自分を乗りこえるために読むのではなく、自己の属性に都合のよいように切り取る。それはやがて、その属性を分有していない他者への蔑みにつながる。これがルサンチマンの根源である。
homo sumの精神、人間にまつわるすべてを言祝がんとする鷹揚な精神で書かれたラテン文学を、自己のアイデンティティに都合のよいように切り取ることは適切ではない。
「コンテクストの規定は決して確証されることも飽和することもない。」(デリダ「署名、出来事、コンテクスト」)散種は適切になされる必要がある。
断章するだけはだめで、義を取らねばならないのである。




阿部君、拝読しました。
不肖私は、聖書を通読したことがないのですが、
原典にあたってものを考える大切さは原典研究所で学びました。
私が読めるものには限りがあると思いますので、
阿部君をはじめ皆さんの助けを得て、前に進みたいと思っています。
キリスト教についての追記
福音書は、成立年代順に並べられているわけではない。
では、なぜマタイが最初に置かれ、ヨハネが最後に置かれるのか。
私たちはまずマタイを読み、人間的なイエスに親しみを感ずる。
そこから階梯を登って行って、最後はヨハネの理念的なイエス、ロゴスとしてのイエスに到達する。
福音書の順番には、このような教父たちの配慮があったのではなかろうか。
読者は、エリ・エリ・レマ・サバクタニがロゴスの言語ではなく、あえて民衆の言語のまま記述されていることにも注意されたい。