日本における大義とは何か
- Hiroyuki Ohe
- 2019年1月28日
- 読了時間: 2分
国の興亡史を読んで、いつも考えることがある。
「我が国はどうなのだろうか」
日本列島に、日本国はある。そして、日本人がいる。しかし、それは「日本」なのだろうか。
政教分離をうたわなければならないほど、政治と宗教が密接に絡み合ってきたことは歴史は語っている。
そして世界に目を配らせれば、宗教と政治が絡む場面など簡単に見つかる。
我が国は、統治の根本として日本国憲法を掲げている。
日本国憲法には、日本国民が主権を有することと、天皇は日本国および日本国民統合の象徴であることが記されている。
ただ、それ以上に「日本とは何か」が記されているものではない。
大日本帝國憲法を読んでも、天皇が万世一系で紡がれた帝位を践んで国家統治の大権を有すること、
臣民とともに国家を盛り上げていくことを皇祖に誓い、そして帝国が反映することを願うことが書かれているが、
日本とは何たるかが書かれているわけではない。
日本とは、万世一系の皇室を戴く国である。
そのようなものだといえば、早い話である。これに疑うことは日本人として許されないというよりは、日本人ではない。
このように整理ができれば、大変に分かりやすい話である。
しかし、日本国憲法には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。
これを素直に読めば、万世一系の皇室を戴く国であるにもかかわらず、日本国民の「総意」なるものがあれば、天皇の地位は失われるということに読める。
日本国憲法を読めば読むほど、「日本とは、万世一系の皇室を戴く国」とはいえないように思われる。
戦後レジームのなかで育った日本人には、天皇はありがたい存在であっても、国体そのものであるとの意識は育ちづらいように思える。
民族の点から考え、日本人のいる国が日本であると考えることも可能かもしれない。
しかし、現代においては、国境を越えての移動は容易であり、国籍として日本であっても、
生物学的な意味での日本人の民族性を有していない人間もいる。
我が国は、既に多民族国家であるように思える。
国家体制を考えるとき、我が国が帝国(多民族国家)として生存するか、
それとも日本人という民族国家として生存するかは重要な問いであるように思える。多民族国家だとすればなおさら、日本が日本たる所以を「大義」として掲げるべきであろう。
民主主義、基本的人権が「大義」であるかどうかもよくよく考えるべきである。
民族国家であれば、我々が日本だと確信できる限りは、日本は日本である。
しかし、多民族国家だとすれば、我々が日本たる所以は何かを考えなければならない。




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