日本型経済について
- 悠樹 阿部

- 2021年5月22日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年5月27日
(追記)
この記事は、<勝義諦>(真理)ではあるが、<世俗締>(話しかた)において稚拙だった。当時のものとしては残すが、世に広めるためには、別のやりかたで語る必要がある。
先日の御手洗さんの紹介を受けて、グレン・ハバード&ティム・ケイン『なぜ大国は衰退するのか』を入手した。この本の日本型経済についての叙述は、明治維新から高度経済成長までの成功と、バブル崩壊以降の停滞を統一した視野から説明できる優れたものであった。
・政官財が文明開化という共通の目標のもとに連帯すること、また企業間の血縁(財閥)ないし株の持ち合い(系列)という紐帯からなる日本型経済は、労働者の「競争」の共通の尺度とある種のセーフティーネットを提供し、キャッチアップ期の経済が猛スピードで先進国に追いつくことを可能にした。しかし、その先に行こうとするときには、肥大化した制度のレントシーキングと規制が企業家精神を縛る鎖となる。(註1)
・日本人の<勤勉>。日本人の貯蓄率が高いことは投資による経済成長をもたらすが、それは企業家精神を傷つけるリスク回避的な傾向と表裏一体である。
では、以上の日本型経済の特徴を踏まえて、政治はその限界をいかに乗りこえるべきか。幕末の日本が抱えていた困難は封建的な社団を中央集権政府のリーダーシップで代替することにより解決した。今の日本の困難はむしろ硬直化した”スーパーモデル”―日本型経済はキャッチアップ期経済の模範となったが、日本にとってもはやそれは過去のものである―を自発的な社団voluntary associationにより代替し、日本人が企業家精神を獲得することよって解決される。この洞察は、著者のユーモアの才と相俟って、読者に多くの気づきを与えている。
「日本の地方自治制度は政治面では連邦的な構造でないため、経済が必要としている起業家型の飛躍を助長する制度的実験をすることができない。より広い意味の連邦制をつくろうとすれば、皮肉なことに、江戸幕府が日本を統括した手法を「復活」させることになる。県制度のかわりに”大名”を復活させるべき時期が来ているのだろうか。」(註2)
もちろん、この「復活」は同じことの焼き直しではなく、地方分権と中央集権の円環におけるヘーゲル的な否定、地方分権の理念が明治維新における中央集権の成功に肯定的な意識を有ちながら質的に飛躍して自己に反照=還帰Reflektionした境地にある新日本である。(註3)自発的な社団は封建的な社団ではない。
「日本型経済」に対する社会主義者の興奮した調子の称賛と、自由主義者の全くの侮蔑という紋切り型の二辺に陥るよりは、それを歴史のひとつの段階と位置づけて功罪を適切に評価するほうが、日本を30年来の停滞から救い出すことに寄与する議論になるのである。
(註1)新規参入を妨げる規制に直面しながらも、新しい事業に成功した企業家として、本田宗一郎がいる。
「さらに、政府が老舗企業を優遇したにもかかわらず、新しいタイプの日本企業という希少な組織が成功を収めた例も少なくない指摘しておかねばならない。たとえば、因習を打破した企業家の本田宗一郎は、1962年に行政指導を無視して自動車を生産する夢を追い、優遇されていたトヨタ、日産、スバルなどの自動車ブランドとの競争に飛びこんだ。現在、ホンダは世界のどの企業よりも多い年間約1400万台の内燃機関を生産している、世界第七位の自動車メーカーである。」
(註2)これは渡瀬裕哉氏が提唱している「地方分権による善政競争」を、日本史に即して述べたものと解せる。
(註3)ヘーゲルの歴史観は、真理が円環運動しつつ発展するという彼の真理観に裏付けられている。
それを線型史観とか循環史観といった二次元的な幾何のイメージに還元することは適切ではない。――たんに線型的なものであると誤解されることが多いようである。
強いて図形として表現するならば、それは三次元の螺旋である。しかし、それは静止した螺旋ではなく、運動する主体の軌跡としての螺旋であり、図形的なイメージだけで彼の全思想を掴みとることはやはり不可能である。彼が数学の抽象性に飽き足らず、現実的かつ必然的な学的体系を構想していたことは周知のとおりである。




追記3 経済論の取り扱いについて
私は、魂は自立していると自負していますが、経済的には親に依存しています。
このような境遇にある人間が、部外者として他人の生活を云々するのは、世俗締の見地からは、やはりふさわしくないでしょう。
私たちの経済論は、御手洗さんのように、今の日本人の生活の事情に明るいひとが書かれるか、私が皆さんのお話を傾聴したうえで書くべきだと考えを改めました。
なお、私のなかにはもはや、リバタリアンとコムニストの両方がいるように思います。
経済学も、<自由>をつきつめたハイエクと、<平等>をつきつめたマルクスを読んでおいて正解でした。マンキューやクルーグマンのような実学は、無駄ではありませんが、それだけをやると盲目になります。
阿部君 拝読しました。私が関わっている企業を見ていると思うのは、
(法律にかかわらず)グレーな事案においては、先例の確認というのは必ずやりますね。
自分のやっていることが正しいかどうか確認するときに先例に学ぶことがあります。
先例に学ぶこと自体は、反自由主義的ではないと思います。
ただ、この先例自体が恣意的なもの(例えば技巧にすぎる法令等)だとすると、
結果として反自由主義的な状況になってしまうかもしれませんね。
もう少し具体的な話をすると、
日本型経済なるものがあるとすれば、その一つは
それは解雇も難しい労働法制及び裁判実務にあるのだと思います。
追記2 共産主義について
マナは、今日のごはんとしては最上ですが、明日までとっておこうとすると、ダメになってしまいます。私たちにとって、「今、ここ」での糧を得ることは喜びですが、明日、明後日の糧を心配するとなると、私たちの生は貧しくなります。
地球には資源の制約がありますから、今すぐに実現できるかはともかく、いつかは「必要に応じて取る」世になればとは思っています。
しかし、「能力に応じて働く」となると、<能力>があるのに働かないと見做された人が、強制労働をさせられることになるわけです。現に、ソ連をはじめとする共産主義国では、そうなっていました。
私たちは、共産主義は拒絶しなくてはなりません。
追記
自由社会の経済は企業というvoluntary associationの競争でなくてはならないが、日本型社会主義のもとで企業間の競争は規制され、それが労働者の競争に転嫁されている。
それが私たちの生を貧しくしているように思う。