死の必然性について
- 悠樹 阿部

- 2020年8月6日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年8月8日
三島由紀夫はなぜ死んだのでしょうか?
芥正彦氏は、映画「三島由紀夫vs東大全共闘」において、三島は一世一代の芝居を打ったのだと述べています。
私はこの解釈に賛同できません。
三島はシェイクスピアではありません。彼にとって世界は劇場ではなく、人間は役者ではありませんでした。彼にとって世界は真剣勝負の戦場でした。
檄文を読めば、もはや既成の政治の文脈では、自主憲法制定と建軍の希望が失われたと彼が考えていたことが分かります。彼は死をもって諫め、己の言霊を日本の希望とするしかなかったのです。
三島が死んだのは、自分が死ななければ、日本が死ぬことを知っていたからです。
およそ思想家にとって死は必然なのです。
イエスにとっては、メシアたることが職業=召命Berufでした。
「成就した。 τετέλεσται」(ヨハ 19:30)
これがイエスの十字架上での最後の言葉です。
イエスの死によって、メシアは迫害されて死ぬという旧約の預言は成就しました。
真理は証されました。
ソクラテスの死もまた、彼の思想が必然的に招いたものでした。
すくなくとも、プラトンはそう確信していました。(*)
ソクラテス裁判にまつわる四つの対話篇を読めば、それがひしひしと伝わってきます。
「じつに、もう行く〔逝く〕べきときが来ました。私は死ぬために、諸君は生きるために。」(『弁明』末尾)
私も哲学者の端くれとして、死のほうが生よりもよいことは弁えています。
ですが、犬死はいけません。人間として死ななければなりません。
テテレスタイという確信をもって死ねるときまでは、死は留保されなくてはなりません。
(*)「われわれは、ソクラテスの思想をつかみ取ることでプラトンが自身の哲学の礎を築いてゆく有様をみてきた。ソクラテスの死は、まさしく彼の思想の必然的な帰結であり、プラトンは『弁明』においてソクラテスの死の真相を描き出すことで、ソクラテスの思想の根本を浮き彫りにし、自身の出発点を据えたのだった。
ソクラテスにとっての終わりは、プラトンにとっての始まりであった。」
田中大 「『ソクラテスの弁明』読解」(Cubic Argument 第99回勉強会資料)
思想家にとっての終わりは、他者にとっての始まりです。
肉は滅びても、それによって言霊は生きるからです。
「あなたはペトロ Πέτρος。私はこの岩 πέτραの上に教会を建てる。」(マタ 16:18)
ペトロの屍の上に、普遍的な教会Ecclesia Catholicaは建設されました。
私たちは三島由紀夫の屍の上に日本を再建します。
ですが、精神的なgeistig日本が、いつのまにか聖職者のgeistlich日本に堕することがないように銘記せねばなりません。
令和2年8月6日 阿部悠樹





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