法と正義について
- 悠樹 阿部

- 2020年7月1日
- 読了時間: 1分
更新日:2020年8月6日
三島由紀夫は事物の背後にある本質を見通す目と、それを表現する言語能力を兼ね備えていました。彼が法律家について書いているのを読めば、法律家の何たるかが分かります。
「本多は、仕事への熱意がそのまま感情からの離隔を意味する、このふしぎな抽象的な職業を愛しかけていた。」
「本多は何を悪と考え、何を罪と考えていたかといえば、それを考える役目は、本質的に彼のものではなくて、国家的正義の考えることだった。」
「馬丁が馬の匂いに染まるように、彼の三十八歳は、すでにこの法律的正義iustitia legalisの匂いに染まっていた。」
「本多は理の勝ったその性格のために、却って正義をして正義たらしめるあの狂信を欠いていたのである。」(『奔馬』)
専門性に没入することは、その気質を肥大化して本然の性を曇らせることです。
戦後体制を克服するためには、「国家的正義」「法律的正義」の型に嵌るのではなく、正義そのものを欣求しなくてはなりません。(※)
それが狂となることであり、吉田松陰と三島由紀夫が実践したことです。
(※)法は法でも、自然法iusを探究するべきで、実定法lexを奉戴するべきではありません。
令和2年7月1日 阿部悠樹




阿部君
遅くなりましたが、拝読しました。
実定法の問題は、基本的に解釈問題になりますね。
それが法かどうかの議論は全くといっていいほどしないわけですね。
この点が、皆さんが法律に期待しているもの(法に従えば良き社会になる?)と法律の運用のギャップの深さが感じられるところかと思います。