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百田尚樹 『日本国紀』 国民史観の形骸

  • 執筆者の写真: 悠樹 阿部
    悠樹 阿部
  • 2019年1月6日
  • 読了時間: 2分

更新日:2020年8月8日


 『日本国紀』と題されたこの本を手に取ると、「私たちは何者なのか」との謳い文句が目に留まる。ルーツにまで遡って「我々」日本民族の歴史を記述しようとする、「国民の歴史」の試みだ。


 そのためには、過去の無数の出来事を、民族の発展にとって自体的な(per se)事実と偶有的な(per accidens)事実に弁別し、前者によって歴史を物語ることが要請される。


 日本史におけるこの方法の好例は、大川周明の『日本二千六百年史』だ。『日本二千六百年史』は必然的に歴史哲学から始まる。歴史とは「彰往察来」、過去を彰らかにして将来を察知することであると。一章で彼の方法論をさらに詳述し、二章で日本国民・日本国家とは何かを論ずる。無数の事実は、ここで提示された方法の光に照らされて選別される。例えば、彼は鎌倉仏教を記述するに際し、道元に特別に一章を割いている。日本精神の発展において、道元が重要な役割を果たしたと考えたからだ。このようにして、諸事実の深奥に潜む人間の精神が抉剔され、日本民族の発展における意義が解明される。


 翻って、『日本国紀』を読むとどうか。歴史とは何か、日本民族とは何かを提示することもなく、いきなり「縄文時代」の記述が始まる。事実は豊富で、筆者が『日本書紀』や『太平記』などの史料を読んでいることも伺える。だが、諸事実を連関させる方法が欠如しているため、紐が切れた数珠のように、日本民族の発展の歴史としては纏まりを欠いている。


 私は『日本国紀』が無価値だと言いたいのではない。この書が日本史のエピソード集として、あるいは日本史について網羅的な知識を得るための資料集として出版されていれば、名実が一致しただろう。


 ポストモダンが国民史観を解体したとき、新しいエピステーメーを生まなかった。『日本二千六百史』と『日本国紀』を対比するとき、形而上学的に不毛な時代を生きる我々が、平板に事実を羅列する以外には歴史を記述する文体を持たないことを嘆くのみである。


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