私の「リバタリアン」運動との関わりかた
- 悠樹 阿部

- 2020年3月31日
- 読了時間: 2分
この記事は、私が「リバタリアン」の人々と関わるにあたっての態度を表明するものです。なるべく早くに世に出しておきたいと思っています。皆さんのご意見を賜りたいです。
人間は古来より自由を希求してきました。その意味で、「リバタリアン」は古くからの生き方です。しかし、現代の政治運動としての「リバタリアン」(註)は、「大きな政府」「福祉国家」が人間の自由を抑圧していることに対する危機感から生じた、新興の政治運動です。
新興の政治運動が抱える困難は、いわゆる「文化資本」に乏しいため、人々に、とりわけ知識人の間で受容されにくいことです。
私の政治参加はまだ始まったばかりであり、政策上の議論でリバタリアンの運動に寄与できることは、おそらくほとんどありません。
ですから、哲学をすることによって、少しでもリバタリアンの思想を豊かにすることに寄与したい。そのようなやり方で、リバタリアンの運動と関わっていけたらと思っています。 (註)「リバタリアン」という生き方が、「リバタリアニズム」というイデオロギーに堕することは厳に慎むべきです。
「identifyとは時間を通じて同一のものとして特定するということですから、自己のアイデンティティの規定とは常に人間の動的精神を前にした便宜的な規定に過ぎず、そこには常に逡巡があって然るべきだと私も考えています。そしてそれに拘泥する限り、精神の端的な自由はあり得ないし、精神の端的な自由がなければ思想は生じ得ないはずです。」 (「人はなぜ党派性に陥るのか」に対する、田中大君のコメントより)
「リバタリアニズム」という党派を作り、政策上の結論を押し付けることは、他者の精神の端的な自由を奪うことに繋がりかねません。私にとって「自由」は各人の人間精神の自由であり、それを互いに尊重することが「リバタリアン」という生き方です。なるべく多くの人が経済的、イデオロギー的な強制から解放されるために、政府の専横を排するべきである(最小政府論)と考えていますが、政策論はあくまで暫定的なものです。
令和2年3月31日 阿部悠樹




大江さん 「私の感覚ですが、自由を希求するのは人生論であって、法則や真理の類ではない」 はい、そうです。 「リバタリアンの人性論」において、性悪説は現実の認識としてかなり正しいが、運動論として決して受容してはならないと述べました。 それは、性善説に立ち、至誠で自他と向き合わないかぎり、真の意味で他者を啓発することができないからです。自由を希求することは人生論であり、現実の認識ではありません。 「一人の「朋友」を求める活動を土壌に、しぶとく生きていくことを通して、まともな国家を打ち立てることができるのかを人生通して挑戦してみたい」 はい。これは私もともに挑戦します。
私たちが一人づつ朋友を増やすことで、「精神の端的な自由」を獲得した人間の共同体が幾何級数的に広まることが理想です。
阿部君
拝読しました。
他者の精神の端的な自由を奪うことに目を向けている阿部君の誠実な態度が窺い知れます。
私の感覚ですが、自由を希求するのは人生論であって、法則や真理の類ではないように思います。
もっぱら言論を消費するばかりの人間もいますし、そもそも正解を求めるだけの自由を希求しない人間もいるでしょう。
私達の活動は突き詰めれば突き詰めるほど、おっしゃるとおり一人の「朋友」を求める活動なのですね。ただ、私は「善く生き」ようとされる皆さんとのコミュニケーションを通じて、一人の「朋友」を求める活動を土壌に、しぶとく生きていくことを通して、まともな国家を打ち立てることができるのかを人生通して挑戦してみたいと思っています。