私の憲法論
- 悠樹 阿部

- 2020年3月29日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年4月5日
先に大江さんが投稿した、「これからの活動理念」に大いに心を動かされました。
「私達は、自らの国の歴史を偽っても繁栄を享受しようとは思わない。」 この気概を持って生きていきたいものです。 なお、国民主権についてはともかく、基本的人権や平和という価値それ自体は、戦後レジームを脱したあとの日本の憲法においても記載されるべきだと私は考えています。 ただし、それが「戦勝国に対する敗戦国のいわば詫び証文あるいは謝罪文」という形で提示されてはならず、日本国民がそれを自分たちのものとして享受できるようになるべきです。 「国民主権」の是非は主権概念に関わる厄介な問題です。国民は各人が独立した人格を持つのに、不可分であるはずの主権がなぜそれに帰属するのでしょうか。「一般意思」という多分に全体主義的な神話でそれを誤魔化すのでしょうか。 主権の帰属については、私は天皇主権がよいのではないかと思っています。天皇のもとで、自由と平和を享受しつつ、国民が調和して生きることが私の理想です。 もちろん、そのためには成文の憲法典を作るだけではなくて、政治参加して絶えずに運用をしていくことが必要です。 「基本的人権」については、自由権を至上の価値とすべきであるというリバタリアン的な考えを持っています。 戦後レジームの「福祉国家」のもとでしばしば行われたような、「公共の福祉」「公益性」などを口実に人間の自由が脅かされるという事態を警戒しています。 もっとも、リバタリアンとは言っても、無政府論ではなく最小政府論であり、暴力などにより自由が脅かされることを防ぐ(国防を含む)、自由意志による契約を担保する、という役割は政府が負うべきだと考えています。 令和2年3月39日




大江さん 国民主権か君主主権(天皇主権)かの議論が、その国の歴史に根差した問題であることが理解できました。 日本の場合、「大正デモクラシー」のように、天皇のもとで国民が自由を獲得してきた歴史があります。日本の歴史においては「君主対国民」ではなく、「藩閥政府対国民」だったわけです。 「彼等は常に口を開けば直ちに『忠愛』を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。」(尾崎咢堂による桂首相弾劾演説) 忠君愛国は政府の一手専売ではなく、忠君愛国の国民が自由を獲得してきたのです。 であれば、我が国において天皇を戴くことは何ら問題ないと考えます。 しかし、我が国は敗戦によって、西洋の憲政史に根差した主権概念を受容しました。 大江さんが指摘する通り、西洋の、特にフランスの憲政史に照らして主権概念を理解する知識人が蔓延っているため、天皇主権を訴えることには反発が大きいだろうと思います。 日本の歴史に根差して憲法を語ることが、戦後レジームを脱却するひとつの手がかりだと考えています。
阿部君、拝読しました。
主権という話題は非常に難しい話題だと思っています。
西洋でいう主権とは、動態的にいえば、基本的には闘争して勝ち上がった人が持てるものというのが私の理解ですが、この理解に立てば、君主主権=国民(派)の敗北と理解されると思いますので、その変更には拒絶反応がなされるように思います(王政に復帰したスペインの例はありますが、例外的だと思っています)。
他方で、我が国は、国民主権はおよそ闘争の結果得たものではないため、その「筋」の議論では、国民主権か君主主権かは非常に大事な問題なのですが、世の中に投げかけるときに国民主権か君主主権かは、ピンとこない人が多いんだろうなと思います。