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諸葛武侯弁護

  • 執筆者の写真: 悠樹 阿部
    悠樹 阿部
  • 2021年5月23日
  • 読了時間: 4分

更新日:2021年6月8日

 倉山満先生は張良を、前提知識の乏しい視聴者に向けてこのように紹介する。

「はっきり言えば孔明よりもすごい人」と。(註1)


 このような言葉の裏には、現代日本の「三国志ブーム」を経て、私たちの間で諸葛亮の名が独り歩きしていることに対する、歴史家の抗議がある。


 たしかに、「籌策を帷帳の中に運らし,勝ちを千里の外に決す」軍師の才においては、張良が諸葛亮よりも優れていたことを私は否定しない。さりながら、倉山先生が日ごろおっしゃっているとおり、「人間には100点も0点もない」(註2)のであり、軍師の才に限定せずに多角的に人間を見れば、諸葛亮は張良に決して劣らないと私は信ずる。本稿では、彼の思想家としての側面と、軍師の才よりも広い政治的リアリズムにおける<能力 virtu>の側面から、彼の事跡を叙述することを試みる。


 私が諸葛武侯を弁護するのは、倉山先生の発言―動画の本旨とも関係がない―をあげつらうためではない。雑駁なるディレッタンディズムと、偏狭なるアカデミズムの二辺から生じている不幸を脱するために、今や諸葛武侯の名をたんなる音ではなく、私たちが尚友しうる古の賢人に高めるときが来ているからである。


 しかし、恥ずかしながら私の知的能力は、哲学においても歴史学においても、古の賢人を語りつくすには足りない。支那学に定見を持つ人には、忌憚のない叱正を俟つものである。


・思想的な見地

 草蘆に学を楽しむことは、それ自体が喜びであることを私たちは知る。諸葛亮はなぜ、劉備と意気投合して困難な戦いに身を投じたのか。共通善に開かれた魂にとって、学知と実践は不可分だからである。かくしてプラトンはシチリアへ赴く。それは、戦乱に喘ぐ民への同情という功利主義にとどまるものではなかったろう。それは、曹操の法家的猛政を拒絶する義と、漢を興復し同時に礼楽を興さんとする仁である。仁義の定言命法によって行為していたがゆえに、諸葛亮は真正の儒将であったと言うことができる。儒と将は彼の人格の深みにおいて統一されていたのであり、儒すなわち思想家としての側面を閑却し、将としての能力だけを問題にするならば、彼を一個の人間として正当に評価することはできない。

 一方で、張良が戦いを開始した動機となると、彼の祖国を滅ぼした帝国への抵抗という素朴なpatriotismである。個の資質としては類い稀な義侠心と知恵とを見ることができるが、普遍的な思想に依拠する戦いであったとは言い難いであろう。彼が最後は仙人になってしまったことと、漢の創業とに共通する、必然的な契機を見出すことは困難である。


・政治的リアリズムにおける<能力 virtu>の見地

 漢の楚との戦いは、蜀漢の魏との戦いと比べて決して容易だったわけではない。にもかかわらず、前者から爾後400年にわたる安寧が生じ―王莽の迷信化された儒教が招いた中断はあったが―、後者は挫折して民が依然として魏晋南北朝の動乱に喘いだことが、張良の諸葛亮に対する優位の根拠であるかのように見える。

 しかし、両者が置かれていた状況の差を考慮せずに結果だけを評価することは適切ではない。

 元の動画でも述べられている通り、漢の創業は蕭何の宰相の才、張良の軍師の才、韓信の将帥の才が、劉邦の徳(リーダシップ)(註3)のもとに相補うことで実現した。張良の軍師の才は不可欠であったが、何よりも多士済々のチームワークによって行われたのである。

 一方で、諸葛亮は劉備亡きあとに、夷陵の敗戦国を一手に背負いながら、漢興復の事業を軌道に乗せたのである。北伐の折にはすでに先主―蜀漢の事業において、劉備は劉邦の徳と韓信の将帥の才をともに担っていた―もなく、彼が蕭何、張良、韓信の一人三役を担わなくてはならなかった。しかも、その府中の役目だけでなく、宮中が担うべき徳も一部は彼の人格によって補われなくてはならなかった。――諸葛亮は、その言動によって、蜀漢の人士たちに先主の遺徳を絶えず追憶させた。「出師の表」はその白眉である。

 彼が健在である間は、領土人口において狭小な蜀漢が攻勢をかけ、魏は守勢を強いられたのである。彼が志半ばに陣没したときには、蜀軍は長安の目前まで迫っていた。劉邦の軍勢が項羽の軍勢にたいして、戦いの終盤に盛り返すまで劣勢を強いられていたことを想起されたい。

 諸葛亮はやはり武侯の名に値する卓越した戦争指導者なのである。



(註1)「秀吉の限界~本当は誤解だらけの戦国合戦史」 2:12~2:56を参照のこと。

https://www.youtube.com/watch?v=YMIFgqUW29Q


(註2)このような中庸の知恵は、歴史に即して思想を展開する歴史家にふさわしいものである。司馬遷は、天を完全に正しいとする通俗道徳にも、天地は不仁として世を嘲るシニシズムにも与さなかった。彼は列伝の最初に伯夷・叔斉を置いた。「儻シクハ謂ハ所ル天道ハ是カ非カ」。天は世の不条理と、伯夷叔斉の高貴な振る舞いをどちらも包摂する。彼の形而上学における態度は、断定ではなく修辞である。


(註3)「沛公、良を拝し厩将と為す。良、しばしば太公の兵法を以て沛公に説く。沛公、之を善しとす。常に其の策を用ふ。良、他人のために言えども、皆省みられず。良曰く、沛公殆んど天授なりと。故に遂に之に従ふ。」(「史記」留侯世家)

この太史公の記述を信ずるならば、張良の言を能く採り上げることができたのも、劉邦だったからこそである。


 
 
 

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2件のコメント


Hiroyuki Ohe
Hiroyuki Ohe
2021年5月25日

阿部君、拝読しました。

なかなか面白い話題ですね。

張良と諸葛亮は、時代も立場も違うと思いますが、

そもそもどういう観点から「比較可能」な人物と映っているのでしょうか。

講学のためお教えいただければ幸いです。

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悠樹 阿部
悠樹 阿部
2021年5月25日
返信先

大江さん

コメントありがとうございます。

それはおそらく、人口に膾炙している、「軍師」という見地でしょうね。

大江さんがおっしゃるとおり、また私が本文中に書いているとおり、張良と諸葛亮は立場も結構違うのです。

張良がザ・軍師なのに対して、諸葛亮はもっと幅広いことをやっています。

なので、軍師としては張良のほうがすごいぞ、という意見ばかりが広まっているのが残念で、この文章を書きました。

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