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貴族と市民

  • 執筆者の写真: 悠樹 阿部
    悠樹 阿部
  • 2021年5月23日
  • 読了時間: 4分

更新日:2022年12月30日

乱に曰く、已んぬるかな

国に人無く、吾れを知る莫し

又何ぞ故都を懐わん

既に与に美政を為すに足る莫し

吾れ将に彭咸の居る所に従わんとす


乱:辞賦の締めくくり、結語


屈原の詩は美しく、しかも人間的である。

私たちは、言葉の表面に現れた諦観のうちに、老荘的なシニシズムではなく―それは漁父として、屈原にとっての他者として表現される―、将に死なんとする人の大いなる無念を見る。


マキャベリもまた、志破れた無念を原動力として著作した偉人である。

メディチ家がフィレンツェに帰還したとき、反メディチ政権の幹部であったマキャベリは公職を追放された。彼は、昼は隣人とゲームに興じるなどして市井に身をやつしながら、夜は官服を身にまとい、<公共のこと res publica>についての真理を記述した。


ただし、両者の文体には大きな懸隔がある。

屈原の無念は、彼の肉体の死を招くまでに純化され、美しい詩となる。

マキャベリの無念は、屈原のそれほどに純化されていない。彼の関心は、「今、ここ」で無念を晴らすことに向けられる。マキャベリは、「又何ぞ故都を懐わん」とは言わない。彼はいかなる挫折を味わおうとも、市民として、あくまで<イタリア人>の連帯を信じた。ルソーが君主論を共和政の宝典として読んだことも、ここによって首肯されるのである。(註1)


私としては、屈原の無念にも、マキャベリの無念にも、どちらにも親しみを感じる。

しかし、今という時代を考えるとき、私たちはあまりにマキャベリ的で、市民的でありすぎ、屈原が有していた高貴さ―安んぞ能く身の察々たるを以て、物の汶々たる者を受けんや―が貶められていないだろうか。

貴族と言うと、現代人はそれを封建的な、乗りこえられるべき退嬰としてしか視ない。

たしかに、屈原を讒謗したのもまた、階級的には「士大夫」の人々だったのであり、事実上のde facto、歴史の中で存在していた貴族には、わが国の公家と武士を含めて、多くの腐敗堕落が認められる。(註2)しかし、私がここで言いたのは、屈原が有していたような高貴さとしての貴族、権利上のde jure、理念型としての貴族のことである。

私たちが完全な唯物論者となるとき、世の不正に抗う動機はどこから出てくるのか?物質だけが問題ならば、自己の物的欲望を満たすために、社会に順応すればよいということになるのではないか。そもそも、<正><不正>という観念は無効化されるのではないか。(註3)

貴族性を忘却すると、<市民>もまた<庶民>に頽落して、市民としての節を貫くことすら不可能になる。オルテガが言ったように、私たちが精神的な貴族となるべきときが来ているのだ。


今の私が十分に貴族的ではないために、私たちが貴族性を獲得する方途を示すことまでは、自信がない。しかし、たとえば宣長大人に倣って平安文学を味わうことから始めるのも、また一興だろう。



(註1)「政治について書くからには、君は王侯か立法者なりしかと人は問わん。

曰く、否。むしろ志を得ざるがゆえに、政治について記述するなり。

もし吾れ王侯ないし立法者なれば、何の故にか為さるべきことを言うために時を浪費せん。それを為すか、黙するのみ。」


ルソーは虚栄に満ちた文士と言われるし、彼の文章と人生からはたしかに、自意識過剰と思想を異にする者への不寛容を読みとることができる。しかし、少なくとも『社会契約論』にあっては、彼が書かねばならなかった肯定的な―ギリシア、ローマの市民的徳への憧れ―、かつ否定的な―「主人と奴隷」のみからなる絶対君主制がヨーロッパを覆わんとしていることへの危惧―契機が通底していることを忘れてはならないだろう。


(註2)「政治家や実業家の腐臭は、遠くにいても、あたかも夏の野の彼方から動物の屍肉が匂って来るように鼻をつくが、華族の悪臭はそれだけ香の薫りに紛らされている、ということはありうることである。」(三島由紀夫『奔馬』)


貴族は、貴族性を失っても、その外観のゆえに権威を持ち続ける、ということはありうることである。読者は徳川家広と細川護熙の、戦後体制への順応に注意されたい。


(註3A)マキャベリ自身は唯物論者ではない。

しかし、マキャベリが『物の本質について』De rerum naturaに知的な刺激を受け、それに注釈を書いていたことから考えると、彼の意識が志向していた先に行きつくと唯物論になるとは言えるかもしれない。

彼の<公共のこと res publica>は、多分に物resの色彩を帯びている。


(註3B)サルトルはこの問題に鈍感ではなかった。(『唯物論と革命』)

しかし、彼は哲学者として政治をするのではなく、自らを「プロレタリアートの実存」という衆生の視点に合わせ、共産主義の運動に参画することによって救済を得ようとした。結果として、彼はスターリンと毛沢東という怪物のアポロジストとなったのである。


 
 
 

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2件のコメント


Hiroyuki Ohe
Hiroyuki Ohe
2021年5月25日

阿部君、拝読しました。

私が勉強不足なのですが、屈原は、具体的にどういう人生を歩んだでしょうか(最後の入水ぐらいは知っていますが、それ以外はほとんど知らず…)。

いいね!
悠樹 阿部
悠樹 阿部
2021年5月25日
返信先

大江さん


屈原は、靖献遺言で八人の義士たちの最初に採用され、日本の維新の志士たちにも絶大な感化を及ぼした人です。吉田松陰は、遺書の留魂録で、私は屈原に倣って行動してきたと言っています。


彼は、戦国時代の末期、つまり始皇帝が中国を統一する少し前の時代の、楚の国の貴族でした。当時、諸国は同盟を結んで、強大な秦に対抗していました(合従)。

しかし、張儀というペテン師がやって来て、同盟を破棄して秦と仲良くしたら楽になれるぞ、と楚の懐王に吹き込みます。もちろん、これは分断して各個撃破しようという秦の謀略です。で、懐王は同盟を破棄したばかりか、秦との会合にノコノコ出かけて行って、拉致されてしまいます。

屈原は懐王も、次の王も諫めて秦に対抗すべき理を説き、そのために活動するのですが、秦の工作と奸臣たちの讒言に遭って、宮廷を放逐されます。あまりに廉潔で気位が高い人は敵を作りやすいのですね。ローマの小カトーもそうでした。

屈原は、祖国の滅亡を前知して、汨羅に身を投げて死にました。

バンドワゴンは国を滅ぼします。

ちなみに、始皇帝の死後に、楚を復興すべく秦との戦いに立ち上がったのが、かの項羽です。


秦は法家の君主専制政治をしていて、他国の人から見ると、「あそこは礼義を忘れて、敵の首を取ることだけに夢中になっている国。秦が統一するくらいなら、私は東海に入水して死ぬ。」(斉国の人、魯仲連)と言われるくらいでした。

つまり、秦への抵抗は、屈原も、魯仲連も、荊軻も、祖国と自由を守るための運動だったと解することができます。

しかし、こうした運動は一旦は挫折して、始皇帝が統一帝国を作るのですね。

ただし、自由を希求する人間の性までは変えられなくて、始皇帝が死ぬと内乱が起こる。

その内乱を収めた漢は、これもまた帝国ではあるのですが、法家の猛政が失敗したことに反省して(賈誼「過秦論」)、儒家の<寛治>に転換します。何でもかんでも中央が命令するのではなくて、ある程度は自生的秩序に任せよう、税をまけようという発想です。

漢は、始皇帝の帝国と、諸国の自治を求める声をともに引き継いで、儒学に基づく新しい国体を作ったということです。屈原たちがやったことも無駄ではなかったんですね。

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